令和元年となった2019年はわたしにとって衝撃のニュースから始まりました。
池江璃花子さんの白血病の告白です。
池江璃花子さんは競泳女子の日本代表であるとともに日本の元気な女子の代表のような方ですから、なおさらショックでした。
立て続けに、堀ちえみさんが舌(ぜつ)がんを公表。
お二人の言葉は、まったくひとごとでなく、わたしの胸に刺さりました。
こんにちは。難病のフリーライター 松井二郎です。
ふつう難病になると、なぜこんな目にあわないといけないの? と世を呪い、人を恨んでしまうもの。
とりわけきついのが、
「なんでよりによって自分なのか」。
人いちばい、二倍、三倍がんばってきたのならなおのこと、突然ふりかかった不運に、自暴自棄になっても無理のないことです。
なのにお二人は、みじんもそんな言葉を発していません。
それどころか、
池江璃花子さんは
「自分に乗り越えられない壁はない」
堀ちえみさんは
「私は負けない!」
とブログやツイッターで語っておられます。
堀ちえみさんにいたっては、舌がんの手術を終えたそばから、こんどは食道がんが見つかって、それでも、
「後ろに戻るという事は、前に進める可能性も大いにあるという事」
「後で振り返った時に、今日という日も決して無駄ではなかったと、そう思える一日にしたい」(ブログ「hori-day」2019/4/19)
など前向きな言葉ばかりをつづっていらっしゃる。
心から敬服します。
お二人とも、がんばりが肉体の限度をこえてしまったのでしょう。どうかゆっくり、お休みください。
わたしはというと、いちおう、病気を題材に記事を書いておりますが、
自分には乗り越えられない壁のほうが多いと思っているし、
すこしでも負けそうだと思う戦いは始めからしないで逃げるし、
がんばるどころか、子供時代は「どうせ勉強したって80年くらいで死んじゃうんだから」とサボっていたし、いずれ焼いてしまう体を治すために苦しい闘病なんてしたくない、トウビョウからは逃亡、という手合いです。
難病のクローン病を宣告されたときは、
「なんで自分が」
と、しょげかえってしまいました。
同情するなら責任とって
難病になったことを実家の母に電話で告げると、
「どうしておまえのところにそんな病気が来ちゃったのかねえ」
と、母もしょげかえっていました。
うむ、ここは母を安心させねば。
「気持ちは、ありがとう。でもね、お母さん、べつに病気のほうからぼくのところにやってきたわけじゃないよ。ぼく自身に原因があるから、ぼくが病気になったんだ。ぼくはだいじょうぶだから」
自分の身のうえに起きることは決して外部に責任を求めてはならず、どんなことも自己責任と覚悟することが大事、と多くのビジネス書で成功に必要な心がけとして教えられています。
すべての責任を引き受ける。これが成功者に共通のマインドであると。
そうだ、そうだ。そのとおり!
と、納得できるほどわたしは人間ができていません。
人生万事 逃げるが勝ち。ひとのせいにするの大好き。
電話ではああ言ったものの、内心、
「お母さんの育て方が悪かったんじゃないの? 責任とってよ」
と文句をたれていました。
でもなぁ。この先ずっと、そんなマインドでいるのはいやだなぁ。
できることなら、すべては自己責任と納得したい。
なので、理論が必要でした。
なるほどそれなら確かに自分の運命はぜんぶ自己責任だよな、すべての責任は自分が引き受けて当然だ、と納得できるだけの理論が。
運命はひょっこり現れるものなのか
さまざまなビジネス書や自己啓発本を読みあさりましたが、精神論しか見つかりません。
ようやく納得できる理論を教えてくれたのは、2600年前に説かれた仏典でした。
仏典にシャカは「因果の道理」を説いています。原因と結果の法則ともいわれるものです。
すなわち、
この世に「たまたま、ひょっこり」はない。
雨が一滴落ちてきても、旅先でばったり知人に出会っても、そうなる原因があってその結果が起きている。
原因不明の事故も、原因が無いのではなく、判らないだけ。原因なしに結果が生じることは万が一にもない。
これは例外を認めない。今も昔も、地球のどこでも宇宙の果てに持っていっても、変わらない法則である。
というと物理の講義みたいですが、安心してください。
シャカは、わたしの身のうえに起きる運命の因果関係に特化して教えています。
それがこの言葉。
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)
どういうことかというと……。
まかぬタネは生えぬ
小学4年の理科でヘチマの観察をすることになっていますが、どうも、自分のクラスのヘチマは、他のクラスのヘチマと様子がちがう。
なんだか細長い。
どうみてもキュウリだ。
ざわつきだす児童たちに、
「そんなはずはない。そういうヘチマもある。これこそ生物多様性」
と担任の先生は説いたのですが、心配になって見に行くと、まぎれもないキュウリ。
まいたタネがヘチマでなくキュウリだった、という実話があります。
キュウリのタネをまけば当然出てくるのはキュウリ。ひょっこりヘチマが出るかも、なんてことは万が一にもないです。
自分のクラスの畑にまいたキュウリが、他のクラスの畑に出てくることもありません。
同じことで、
よいタネからはよい運命があらわれ、悪いタネからは悪い運命があらわれる。ひょっとしたら悪いタネからよい運命があらわれるかも、なんてことは万が一にもない。
これが善因善果(ぜんいんぜんか)悪因悪果(あくいんあっか)。
因(タネ)には3つあります。
体でしたこと(身業: しんごう)、
口で言ったこと(口業: くごう)、
心で思ったこと(意業: いごう)。
大学に行きたいなと思って(意業)、「わたしはあの大学を受けます!」と宣言し(口業)、勉強する(身業)。すると大学合格という果が得られます。
大学は行きたいけど勉強はいやだと思って(意業)、「微分積分なんて何の役に立つんだ」と言って(口業)、勉強をサボり(身業)、数学が足を引っぱって第一志望校に落ちたのはわたしです。
自分に訪れる運命はすべて自分のまいたタネ。刈りとらねばならない一切は自分のまいたものばかり。
これが自因自果(じいんじか)です。
自業自得ともいいます。
勉強しなくて試験に落ちると「自業自得だ」と言われますが、ほんらいの仏教の意味では勉強して試験に受かっても自業自得なのです。
「他」業自得は、ありません。
勉強すれば自分の成績が上がるのであって他人の成績は上がりません。他人にノートをとってもらっても自分の成績は上がりません。
自分の運命を生みだせるのは自分の行動だけである。
業の力は永遠に不滅です
さて。ここまでならビジネス書に書いてあります。
問題は、わたしが求めている、「じゃあ何でそうなるの?」という理屈。
ヘチマの畑ならわかるけど、わたしの運命の畑はどこにあるの? 幸せや不幸になるタネをどこにまいているというのか?
答えは――わたしの「アラヤ識」にまいている。
アラヤ識とは、永遠に不滅の心で、わたしの本体であると仏教で説かれます。
70年か80年で焼いて灰になる体は「わたし」そのものではない。「わたしのペン」「わたしのスマホ」同様、「わたしの体」でありわたしの持ち物にすぎない。
本体は、幾億年も前から幾億年も先まで続く永遠不滅のアラヤ識である。
アラヤとは昔のインドの言葉で「蔵」。
ヒマラヤという山がありますね。あれはヒム・アラヤという2つの単語がくっついた言葉で、ヒム(雪)の蔵という意味です。
アラヤ識、別名「蔵識」(「くらしき」または「ぞうしき」)には、過去からこんにちまでのすべてのわたしの業がたくわえられています。
中学校でエネルギー保存の法則というのを習いましたが、思い出してみてください。いちど生みだされた力は、すがた形は変わっても、消失することはないのでしたね。
業の力も不滅で、消えることがありません。これを業力不滅(ごうりきふめつ)といいます。
どんなささいな行為も、「こんにちは」と発した言葉も、笑顔で手を振ったことも、ほんとうはあなたの顔を見るのもいやですと思った心のうごきも、不滅の業力となって不滅のアラヤ識にすべておさまっている。
この業力が運命を生みだすタネです。
ただしタネだけでは芽がでない。
ホームセンターで売られているキュウリのタネは、棚に並べられているうちは発芽しません。
発芽する縁(えん)がないからです。
畑にまかれ、適度な湿り気・適切な気温・じゅうぶんな日光と縁を結んで、芽をだしキュウリの果実になります。
このような「縁」が必要。
わたしのアラヤ識に無尽蔵につめこまれたわたしの業のタネ(これまでのすべての行為)は、さまざまな縁にふれて芽をだすことによって、
試験に受かるという花をひらいたり、
旅行先でばったり知人に会うという果を得たり、
ある日とつぜん難病になるという実をむすぶ。
それらはすべて、お天道さまの気まぐれでもなければたまたまでもないし偶然でもない。
すべては必然。自業自得である。
と、ここまで説明されても、わたしは納得できない。
善因善果、悪因悪果、自因自果。ほんとに例外はない?
だって、おれ、ぐうたらだけど、おれなりにはがんばってたんだよ。自慢じゃないけど篤行善行少年に表彰されたこともあるよ。
おれだけひょっこり、例外で、善因「悪」果、「他」因自果、キュウリからヘチマってことはない?
ドラマ「詐欺の子」にみる自因自果の現実
NHKスペシャルで、オレオレ詐欺の再現ドラマをしていました。
実際にあった話だそうですが、優等生で親孝行のどうみてもいい子が、付き合う友人が悪くて、詐欺に加担して逮捕されました。
これは善因「悪」果、「他」因自果でしょ?
しかしよくよくドラマを見ると、悪友から「もうオレとは付き合うな」と言われたのに彼は付き合うのをやめなかった。
そんな悪友がいても付き合わなければ詐欺などせずにすんだ。事実、彼のまわりで詐欺をしたのは彼だけ。
悪縁をえらんだのは彼自身。そんな縁をえらばずにおれない、ほかの人は持っていないタネを彼は持っていた。
やはり悪因悪果、自因自果です。
あいつのせいでこうなった、こいつのせいであんな目にあったと思っている「あいつ、こいつ」はわたしの因を芽吹かせた縁にすぎない。
だってもヘチマもない、自分の身のうえに起きることは100%例外なく自業自得である。
と、ここまで説明されてやっとわたしは、
なるほどそれなら確かに自分の運命はぜんぶ自己責任だよな、
だれを恨むこともできないし、世を呪うこともできないな、
すべて自分のまいたタネが自分の身にあらわれたことなのだ。
でもそれって、これからの行いによっては運命を変えていけるってことでもある。じゃ、しょげてる必要もないんだな、
と納得できました。
それでわたしは、まあ、なんとか、ようやく、前を向いています。
つづく。
P.S.
ところで堀ちえみさんは仏教の本を読んでいるとのこと。
「仏教の言葉から、いろいろな事を学びたいと、前々から思っていた」のだそうです(「hori-day」2019/4/23)。
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