「死ぬのが怖い」は、人間として当然の感情
最近、こんなことを言う高校生に出会いました。
自分にも、死の瞬間が必ず訪れる。そう思うと、怖くて怖くて過呼吸になりそうです。
こんなことばかり考えている私は、どこかおかしいのでしょうか。
「死んだら、死んだ時さ」とうそぶく人もありますが、そんな人は、ちょうど動物園の檻の中の虎を見ているような状態です。ジャングルで突然、虎に遭遇したら、恐怖で震えあがるでしょう。「死ぬのが怖い」。死を真面目に見つめたことのある人なら、誰もが抱く感情だと思います。
「死ぬのが怖い」有名人の言葉にも
最近、『自分のことだけ考える。: 無駄なものにふりまわされないメンタル術』という本で話題の元・ライブドア社長・堀江貴文さんも、こう告白しています。
いつか死ぬ、明日かもしれない。そう考えると怖い。
でも気ずいたんです。考えるから怖い。考えなければ怖くないと。
しかし何かの拍子に心の隙間に入り込む。
だから忙しくしていた。
出典 twitter.com(『アエラ』2011年6月6日号)
ノーベル賞作家の大江健三郎さんは、
出典 matome-allstar.com(大江健三郎「セヴンティーン」)
と語っています。
戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、案外、平気で死ねるようにみえますが、そんな感情は続きません。
あの忠臣蔵の大石内蔵助が切腹の時、腹を開き短刀は握ったが、手がふるえて腹に突き刺すことができなかった。介錯人が見るに見かねて、彼の輝かしい名声を傷つけまいと、大石の切腹の前に首を刎ねた、と伝えられています。
「死ぬのが怖い」と思うのは、おかしいどころか、人間として当然の感情なのです。
なぜ死ぬのが怖いのか
では、どうして死ぬのが怖いのでしょうか。
理由は、たいだい以下の4つに分けられます。
- 肉体の苦痛に対する恐れ
(臨終に苦しんだり、痛い思いをするのではないか) - 別離に対する恐れ
(家族や友人、恋人などと離れて孤独になる) - 喪失に対する恐れ
(財産、思い出などを失う) - 死後への不安
(死んだあと、どうなるか分からない)
1の肉体の苦痛は、麻酔などの医学の発達で、より軽減されていくことでしょう。
2、3の、それまで大事に思っていた人や物と引き離されることは、いかんともしがたい事実ですね……。
上記の4項目の中でも、死に直面して大問題になるのは、4の「死後どうなるか」だけだと、ガンと10年闘って世を去った岸本英夫氏(東大・宗教学教授)は、記しています。
(『死を見つめる心』)
この「死んだらどうなるかわからない心」を、仏教では「後生暗い心(ごしょうくらいこころ)」ともいい、専門用語で「無明の闇(むみょうのやみ)」といわれます。
そしてこの心こそ、始めから終わりまで私たちの人生を覆っている根本的な不安・苦しみの根元だと指摘されています。(関連記事 スピリチュアルペイン)
では、この暗い心を晴らして明るくすることはできるのでしょうか。
言い換えれば、「死ぬのが怖い」人間の最大の壁を乗り越える方法は、あるのでしょうか。ここからは一人の男性の経験を通して、その答えに迫りたいと思います。
死に直面して心底思った「死ぬのが怖い!」
その男性とは、東京都の吉村健士さん(55)。死に直面し、その恐怖を痛感しました。死を克服するにはどうすればよいか、真剣に模索して、今は、揺るがぬ答えを見出したそうです。
吉村さんに、その経緯を語ってもらいました。
2度、死にかけた経験
私は、2回、死にかけた経験があります。
1回目は、免許取りたての18歳の時。東海道新幹線の橋の欄干に激突し、車ごと新幹線の線路の上に落ちたのです。
幸い、1度バウンドして、新幹線の通るすれすれのところで止まりました。車体は3分の2ほどにつぶれ、運転席のドアが開きません。「このままでは車が炎上するかもしれない」と思った時の恐怖は忘れられません。
決死の思いで後部のドアから脱出し、血まみれの体で動かない左足を引きずりながら、公衆電話までたどりついて救急車を呼び、通りかかったタクシーに助けを求めました。 出血と全身打撲で遠のく意識の中、「ここで失神したら死んでしまう、死にたくない!」と必死でした。
2回目は、40歳の時です。
友達と囲碁をしていた時、鼻の奥で、プシュッと音がして、急に血がたれてきたのです。鼻にチリ紙をつめて横になっても止まらず、救急病院へ行きました。
そこで止血治療をしても止まりません。血圧は226になっていました。数種類の止血法を試しても、プクプクと異常な音を立てながら鼻血が噴き出し続け、それは2日間続きました。「このまま死ぬかもしれん」と思った時、「まだ死ねない、死にたくない!」と、また、心が叫びました。
その病院では手に負えないと判断されて、別の病院へ搬送される途中で、治療がやっと効いてきたのでしょう、ようやく出血が収まったのです。
「死ぬのが怖い」心を克服したつもりが……
実は、この2回目に死にかけるまでに、私は、死の準備はできているつもりでいました。
母が39歳で自殺し、父も突然の事故で59歳で亡くなったあと、次は自分だと思い、「死」に関する本を読んだり、歴史小説などから人の死にざまを想像して、死の心構えをしていこうとしていたからです。
曲舞の演目「敦盛(あつもり)」にある、「人間50年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度(ひとたび)生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか」や、禅僧・快川(かいせん)の、「心頭滅却すれば火も自ら涼し」(しんとうめっきゃくすれば ひもおのずからすずし)など、戦国時代を生き抜いた人々の句を思い出しては、死へのイメージトレーニングを繰り返しました。
そうやって心の準備をしていたつもりが、現実の死の前には、男として恥ずかしいほどおびえ、居ても立ってもいられなくなり、そわそわし、惑乱してしまった。
そこそこの年齢に達していても、「決死という美学。オレのあの学問はどこへいったのか!全く通用しなかった」と思い知らされたのです。
「死ぬのが怖い」を真に克服する道、見つけた!
50を過ぎてそれらの体験を思い出した時、やはり、死ほど根深い問題はないと再確認し、模索へと突き動かされていきました。
そうして、インターネットで検索しているうちに、仏教を学んでいるという女性に出会ったのです。
そこで、有名な仏教書『歎異抄(たんにしょう)』の
「無碍の一道(むげのいちどう)」
という言葉の意味を聞かされ、驚きました。
「人生の目的を達成した人は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である」
仏教には、人間にとっての最大のさわりである死を前にしても崩れぬ絶対の幸福者になれる道が説かれている。その絶対の幸福とは「死んだらどうなるかがハッキリした心」であり、その身になることこそが、人間として生まれてきた目的なのだと言うではありませんか。
正直、最初は半信半疑でした。しかし、学べば学ぶほど、納得せずにおれぬ理路整然とした教義と、その底知れぬ深さに驚嘆せずにいられなくなっていったのです。
それはまさに、私が探し求めていた答えそのものでした。
聞き始めて1年余り、私は、死もさわりにならぬ絶対の幸福になれることを人生で初めて学び、知ることができました。今、毎日に大きな喜びがあります。仏教こそ、私が希求していた教えだったと知り、未来が限りなく明るくなっています。
死にかけた体験も含め、これまでの一切が「縁」というものではないかと、今、強く思っています。
以上が、吉村さんが語ってくれた体験です。
「死を前にしても崩れぬ幸福」とは、どんな幸福か。死んだらどうなるかが、どうハッキリするのか。ここでは十分、説明できませんでした。もっと知りたいと思われる方は、以下のメルマガを読んでみてください。
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