生と死

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ポンペイの人も「メメント・モリ」の絵を飾っていた

こんにちは、齋藤勇磨です。

ポンペイという古代都市をご存じでしょうか。

ポンペイは、2000年以上も前、今のイタリア南部にあった都市です。

ローマ帝国の一部で、当時は1万人ほどの人々が暮らしていたと考えられています。

ところが、西暦79年に、近くにあるヴェスヴィオ山で大噴火が起こりました。

現在は標高1277メートルですが、当時は倍ほどの高さがあったと考えられています。

ちょうど、円錐形の山の上半分が、噴火で吹き飛んでしまったような状態です。

そのため、ポンペイの街は、丸ごと火山灰で埋まってしまいました。

その後、一時は忘れ去られてしまいましたが、18世紀から発掘が開始されると、一躍注目を浴びることになります。

街を襲った火山灰と火砕流により、逃げられなかった人々や、当時の生活の様子が、タイムカプセルのごとく、そのまま保存されていたのです。

ポンペイの暮らしはどんなもの?

当時のポンペイには、城壁で囲まれた街の中に、裕福な人々が住んでいました。

交易によって、小麦などの食料から美術品まで、様々な品物が海を越えて集まっていました。

ポンペイの街には劇場や運動場、風呂屋のような、皆で集まれる施設がありました。

風呂でおしゃべりし、劇場で演劇を見るのが、住民の楽しみだったようです。

剣闘士が戦いを演じる闘技場も、にぎわっていました。

街じゅうに30軒ほどのパン屋があり、朝早くから開く店もありました。

水道も引かれ、山のきれいな水が運ばれていた様子も分かります。

同時期の日本は、弥生時代で、人々が力を合わせて水田で米作りを始めていた頃ですから、ポンペイの街の高度な文化水準が分かります。

ポンペイの家の芸術品

家にはいくつもの部屋や庭があり、壁や床には、お気に入りの絵や飾りがたくさんありました。

特に、モザイク画と言われる絵が有名です。

モザイク画とは、石やガラスを切って作った小さなカケラを寄せ集めて作る絵のことです。

ポンペイでは、最高品質のモザイク画が専門工房でプロの職人たちによって作られ、船などで各地に運ばれていたようです。

ギリシャ神話をテーマにした絵や、エジプトなどの外国の風景を描いた絵が人気でした。

モザイク画の中でも目に留まるのが、通称「メメント・モリ」と呼ばれる絵です。

食堂にあったテーブルの天板に描かれていたといいますから、毎日目にする、目立つ場所ですね。

中央には、車輪の上に骸骨が描かれています。

左には富と権力の象徴である笏(しゃく)と紫のマント、右には貧困の象徴である貧者の杖と背負い袋が描かれ、どちらに転んでも死が訪れることが表されています。

貧富を問わず、死と隣り合わせの人生であることを、見つめるために作られたと考えられています。

「メメント・モリ」の意味は?

「メメント・モリ」とは、ラテン語で「死を想え」という意味です。

ヨーロッパで盛んに使われた言葉で、文学や音楽のテーマにされ、絵画にはよく骸骨が描かれました。

「死んだらどうなるか」、そんなことは考えてもしかたがないと皆、放置しがちです。

忌まわしいと、死を想起させるものまで隔離します。

私たちは、先送りした死の不安を、振り払うかのように眼前の楽しみにふけろうとしていますが、本当にそれでいいのでしょうか。

そう自分たちに言い聞かせるための教訓が、「メメント・モリ」をモチーフとした数々の作品なのです。

しかし、この絵がポンペイの街から発見されたことは、皮肉としかいいようがありません。

多くの人が亡くなっている歴史上の事実は、ポンペイの人々はこのような教訓を噛み締めていたのにもかかわらず、避難が間に合わなかったことを示しているからです。

「自分たちが、まさか」の思いがあったに違いありません。

我が身に迫る危機を自覚せず、今までと同じ日々が続くだろうと感じているのは、ポンペイの人々だけではないでしょう。

日本にも、噴火するかもしれない火山が100以上あります。

火山が噴火しなくても、いつ、どんなことで命を落とすか、分かりません。

例え、不測の事態を免れたとしても、やがて必ず、逃れようのない「死」が私に訪れます。

やがて死ぬのに、なぜ生きるのかを忘れ、目の前のことばかりに心を奪われていないでしょうか。

ポンペイの遺跡は、時代を超え、私たちに、大切な教訓を与えてくれています。

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この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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