仕事

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小説『ガラタンッ!』~人生をガラリと変える『歎異抄』(20)

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スマイル・ウェルカム

春休みから富山ダンスアカデミー、通称TDAに通うようになって、立山瑠華はすっかり持ち前の明るさを取り戻している。

レッスンから帰ったばかりの瑠華は、夕食の席でまくしたてた。

「やっぱりTDAは違うね。すごく厳しくて、まだ踊らせてもらえないんだ。基礎ばっかりだけど、それでも楽しいよ! レッスンルームの床拭きとか重労働だけどね」

大好物のチーズハンバーグがおかずとあって、さっそくご飯をおかわりしている。

「先輩たち、怖くないの?」、麻衣が心配そうに訊ねる。

「怖いよ。でもいじわるじゃないの。かっこいい怖さなの。威厳があるっていうか」

「へえ」。豊も時間管理が功を奏して、月に何度かは夕食を家族で取れるようになった。

〈カフェ「スマイル・ウェルカム」〉のロゴの入ったマグカップを片手に微笑む。

「パパ、この間高校生クラスの見学があってね、ララちゃんの演技見たよ。もう、超ステキ。ララちゃん、いよいよオーディション受けるみたい。本当にアイドルになっちゃうんじゃないかって、もう、ドキドキだよ!」

豊と麻衣は、いじめを乗り越えた瑠華を誇らしく思っていた。

だが、TDAは名門なだけあって月謝が高く、立山家の財政を若干圧迫している。

「ごちそうさま。勉強してくるね」、瑠華は食器をキッチンに下げて自室に引き上げた。

麻衣は瑠華が部屋に入ったのを確認してから、豊に話を切り出した。

「さっき大家さんから電話があったんだけど。今月のお家賃、振り込んでないでしょう」

「あ……忘れてた。今週中に振り込んでくるよ。なかなか銀行に行く時間がなくてさ」

「お金、大丈夫なの?」

「だから振り込むって言ってんだろ」

「それならお願いね。あと、九州のおじいちゃんが入院したみたいなのよ。一刻を争うわけじゃないけど、もう何年も顔を出していないのよ。今年の夏休みくらい、瑠華を連れて、お見舞いに行かなくちゃ」

(う……いくらかかるんだ)豊は家族3人の九州行きを計算した。

「何よ、その顔。やっぱりお金、厳しいんじゃないの?」、麻衣が下唇を噛む。

麻衣がずっと帰省を我慢してくれていることは、豊も重々承知していた。

いつか余裕ができたら、自分から九州へ行こうと誘って、麻衣を喜ばせるつもりだった。

しかし、このていたらくだ。豊は自分の甲斐性のなさにうなだれた。

(いつか、なんて言っていたら、一生実現しないかも)そう思ったとたん、口が動いた。

「よし、今年の夏は、家族3人で九州に行こう!」

だが、自分でも軽い約束のように思われた。

「できない約束なんてしないでよ」、案の定、麻衣が声を荒げた。

「もう、いい加減にして! 適当なことばかり言って。何が夢よ、何が熱血よ。家族をないがしろにして、何のために仕事をしているの? お客さんのため? 嘘よ、自己満足でやっているようにしか見えないわ」

麻衣の唇がふるえていた。

豊は何も約束することができない。だけど誤解されている――家族のことを考えていないわけじゃない。

部屋から瑠華が出てきた。子どもは本能で不穏な空気を察知する。

ここで誤解を解かなければ、大変なことになる。豊はゆっくり語りかけた。

「聞いてくれ、麻衣。それから瑠華。お前たちに心配ばかりかけているが、これだけは信じてほしい。俺が何のために仕事をしているか。それは、お前たちを幸せにしたいからだ。店の名前、声に出して読んでくれよ」、と豊は店のマグカップを指さした。

「カフェ『スマイル・ウェルカム』。マイとルカだよ。お前たちの名前を入れたんだ」

瑠華が駆け寄った。「ほんとだ! 全然気づかなかった。ねえ、ママ」

麻衣は呆然とマグカップを見つめている。

「お前たちあっての、この店だ。俺なりの愛情ってやつなんだよ。わかってくれよ」

豊が裏返った声を出すと、瑠華が大笑いした。

麻衣はしばらく黙っていたが、観念したように肩をすくめた。

昔から、照れたときに麻衣がよくやる仕草だった。

何のためのカフェ?

翌朝、豊は真っ先に銀行で家賃を振り込んだ。胃がキリキリと痛む。

実は今月も自分の給料を出せなかった。

店の口座も、自分個人の口座も、ゼロになる日付が予測できるほど順調な減りっぷりだ。ここで手を打たなければ……。

その日はずっと客入りがよく、切れ目ができたのは午後4時を回ってからだった。

ひたすらカウンターでドリップ作業をしていた豊は、思いきり伸びをした。

すると、ドアが開いて一人の男性が入ってきた。「いらっしゃいませ」と顔を向けると、数日前に飛び込み営業に来たコーヒーメーカーの営業マンだった。

そういえば、ちょうど忙しい時間だったので資料だけ受け取り、あとで検討すると言って帰したんだっけ。

今日はむげに帰すわけにも行かず、営業マンを2階のオフィスに案内した。

「弊社のマシンの導入はご検討いただけましたでしょうか」

「いやあすいません、2度も来ていただいて。資料を拝見したのですが、やっぱりハンドドリップで行くことにしました」
、豊が答えた。

「ですが、弊社のマシンはどなたでも簡単に操作できるのです。オーナー様だけがコーヒーを淹れるとなると、混雑時にお客様をお待たせしてしまうことにもなります。また、他の方がコーヒーを淹れられるようになれば、オーナー様の時間にも余裕ができます」

「せっかくなんですが、うちはドリップにこだわりたいんです。すいませんね」

こういう飛び込み営業も、曖昧な返事をしないでその場で決断したほうがいい、と豊は思った。

自分だけでなく、相手の時間をも奪うことになるからだ。

時間イコール命。『歎異抄』の勉強を始めてから、時間の大切さを実感するようになっていた。

営業マンを見送るために1階に降りると、予想外の客がいた。

皿洗いをする拓哉の横に立って、妻の麻衣が楽しそうに笑っている。

「私もときどき手伝いに来ていいかな。瑠華ももう中学生だから、留守番させられるしね。何かできること、あるかしら」

「おい、お前……」、豊は驚きのあまり、言葉が出てこない。

「だって麻衣も瑠華も名前が入っているってことは、私たちも店のメンバーでしょ」

いつも無口な拓哉が会話に入ってきた。

「いま、僕が豊さんと出会ったときの話をするところだったんです。麻衣さんに、どうしてここで働くことにしたのかって聞かれて」

豊ははっとした。

そういえば拓哉の入店動機について、改めて訊いたことはなかった。

自分のことを慕ってバイトに来てくれている、というぐらいの認識でいた。

拓哉は麻衣に向き直り、せきを切ったように話し始めた。

「そもそもの出会いは、豊さん主宰の読書会でした。文学サークルのOBがたまにやっている読書会が面白いと人づてに聞いて、何となく参加したんです」

「懐かしいな。いつのまにかメンバーが固定して、ただの飲み会になっちゃったけど、みんな本好きだから、話が止まらなくなるんだよな」

「はい、豊さんのああだこうだが、最高に面白くて。特に太宰の話になると……」

「俺1人でしゃべりまくってたよな。わはは」

微笑みながら2人の話を聞いていた麻衣が、ふと思いついたように言った。

「やればいいじゃない。その、ああだこうだをたっぷり話す読書会。カフェ『スマイル・ウェルカム』で」

拓哉の目が輝いたが、豊は困った顔をして首を振った。「やりたいけど……時間がないよ」、そう答えながら、(いや、待てよ)と思いとどまった。

『歎異抄』の勉強を始めてから、ずっと、このカフェの目的、ねらいを一言で言えないかと考えてきた。

ようやく、「お客さんにいい読書をしてもらうこと」というフレーズが浮かんできたところだ。

では、自分は目的のために行動しているだろうか。

「みなさんの行動を、その目的に集中してみてはどうでしょうか。目的につながらない活動を、整理してはどうでしょうか」

豊の心に、西田の声なき声が響いてきた。

「麻衣の言う通り、読書会ができれば、店のコンセプトも明確になるし、店の目的に直結するはずだ。だけど、何か捨てられる仕事、あったっけな……」

ふと、豊の脳裏にさっきのコーヒーメーカーの営業マンの言葉が響いた。

――他の方がコーヒーを淹れられるようになれば、オーナー様のお時間にも余裕ができます。

これこそ、大きな廃棄対象ではないか。豊の胸は高鳴った。

(つづきはこちら)

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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