「なぜ生きる」の答えはわずか漢字2字で答えられる~幸せと本当の幸せの違い(1)
人生の目的(なぜ生きる・生きる意味)の答えはわずか漢字2字で答えられます。目先の目標にとどまらない、自分が本当の幸せになれるヒント。
もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてみましょう。
新潮文庫に、『二十歳の原点』というロングセラーがあります。
著者は、高野悦子。昭和44年6月24日、貨物列車へ飛び込み、20歳の生涯を閉じました。立命館大学の3回生でした。
遺書はありませんでしたが、下宿先には大学ノート10数冊に及ぶ日記が残されていました。
そのページをめくりながら、父親はあふれ出る涙を禁じえなかったといいます。そこには、青春を謳歌しようとしながらも、生きる意味を問い、孤独に震える魂の叫びが、素直な筆致でつづられていました。
2年後、この日記をもとに遺稿集『二十歳の原点』が出版されるや、たちまちベストセラーを記録しました。その一部を抜粋してみましょう。
彼女が自殺して半世紀がたちますが、今もその言葉に、共感を失うことはありません。人はそこに、自分自身の『二十歳の原点』を見る思いがするのではないでしょうか。
妙に大人ぶったり、人生を諦観したようなポーズをとる前の、正直な自分。見栄を張らない赤裸々な叫び。生きる意味を問う、人間の原点が、そこにはあります。
高野悦子が求めたもの、それこそ「人生の目的」です。もし彼女が、多くの知識人が唱えるように、 「とにかく生きることが尊いのだ。生きていけば、きっと何かがつかめる。とにかく生きよう」 と教えられたら、自殺を思いとどまったでしょうか。
きっと彼女なら、ケラケラ笑って、こう言うでしょう。 「それ、ゴマカシじゃない。だらだらと生きるのはイヤなのよ。私は、どんなに苦しくても、なぜ生きねばならないのか、が知りたいの。アキラメと妥協は、排すべし!」
高野悦子は、人生の目的を知りえず、京都で自殺しました。
同じ京都で、800年前、親鸞聖人は、命懸けで人生の目的を探求され、伝えていかれました。
彼女が、親鸞聖人の教えに遇えなかったことが残念でなりません。
なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか。どうして自殺を止めるのか。この人類最大の問題に、ズバリ答えられているのが、親鸞聖人だからです。
自分の命の尊さに実感がなければ、他人の命も尊重できないでしょう。相次ぐ自殺や殺人などの悲劇は、「生きる意味はあるのか」と「命の重さ」を問う、私たちの社会への無言の訴えでもあります。今日ほど深刻に「人生の目的」は何か、その解答が求められている時代はありません。
あるテレビの討論番組で「どうして人を殺したらいけないんですか?」と高校生がボソッと漏らした一言に、出演者がシーンと静まり返り、パタッと番組が終了したことがありました。さまざまな議論を呼びましたが、私たちは、この問いに答えられるでしょうか。
人気テレビドラマ『相棒』に、こんなシーンがありました。犯人が、杉下右京など東大出身で日本の中枢で活躍しているエリートたちを監禁して、「『なぜ人を殺してはいけないのか』をテーマにレポートを書け。満足する解答が書けなければ殺す」と要求。それに対して右京が、「なぜ人を殺してはいけないのか、は結局、正答がない。犯人の意図は、解答できないことを正当な理由として殺人を犯したいのではないか」と語るのです。
「人命は地球より重いからだ」といくら言っても無駄でしょう。「どうして地球より重いのか」と突っ込まれたら、終わりだからです。哲学者もお手上げです。カリフォルニア大教授のP・フットは、「なぜ命が尊いか、説明できた哲学者を知らない」と、論文『道徳的相対主義』に書いています。哲学書を何百冊読んでも分からないのです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」。いろいろに論じられますが、哲学者の永井均教授は、この問いに「3つの回答水準」がある、と述べています。その3つとは、
過日、『読売新聞』に掲載された「なぜ人を殺してはいけないのか」という特集でも、元高校教師の「夜回り先生」こと水谷修さん、元法務教官の魚住絹代さん、宗教学者の山折哲雄さんの3方が、次のような見解を述べていました。
水谷氏は、「人を殺すことは悪だと認識しているからこそ、人類は生き残ってきたと私は考える」「悪を悪だと分かる心をもともと人間は持っているのだから、その良心の声に耳を傾けたい」「なぜいけないのかと頭で考えるのではなく、いけないのだと『腑に落ちる』ことが一番いい」と言われていました。これは、1や2の立場からの回答でしょう。
元法務教官の魚住さんの記事には「愛される体験 伝えて」という見出しがついていました。少年院での指導経験から、子供たちに『自分はかけがえのない存在だ』と感じさせることが大事であり、それには真剣に向き合うことが大事だと述べています。「ダメだと法律で決まっているから」という答えでは、子供は納得しないと肌で感じておられるのでしょう。「人を傷つけてもいいと言う子は、例外なく傷つけられてきた子だ。かけがえのない存在として扱われて初めて、他者の痛みに配慮できるようになる」とありました。自分が「死んでもいいじゃん」と思っている子供に、「殺されたくないなら殺すな」のルールでは、人を殺すのを止めることはできません。では、私たちの『かけがえのない存在』たるゆえんは、どこにあるのでしょうか。
宗教学者の山折哲雄氏は、日本の教育では死とは何かを教えないことが問題だと指摘していました。「この根本的な問題をないがしろにしたまま、今、道徳を教科化しても、効果はないと思う」と述べています。「必ず死ぬのに、なぜ生きる」。この問いに真正面から向き合い、かけがえのない、私の生きる意味を明らかに示されたのが、実に仏教を説かれたお釈迦様でした。
なぜ人を殺してはならないか。その理由こそ、「人生の目的」であり、人生の目的を知って、はじめて、「生まれてきてよかった」という生命の歓喜を味わうことができるのです。
つづきはコチラ
↓↓↓
このサイトでは、この問題について真正面から答えたメルマガと小冊子(PDF)を無料で提供しております。関心があられる方は、こちらをご覧ください。
↓↓↓
人生の目的が5ステップで分かる
特典つきメールマガジンの登録は
こちらから
生きる意味やヒントを見つけるための特集ページです。