私たちには、時として、順風満帆だった人生が、突然の事故や病気で一変してしまうことがあります。香川県出身の斎藤和宏さん(富山県・39)も、そんな一人でした。18歳の時、バイク事故に遭い、左の手足が不自由になってしまったのです。現在も、バイク事故の後遺症による痛みが続く斎藤さん。しかし、そんなハンディキャップを感じさせないほどイキイキと、映像制作の仕事に取り組んでいます。その生きる力はどこからくるのか、インタビューしました。
バイクに興じ、青春を謳歌
――斎藤さんが、アーティストを志したのは、いつ頃からですか。
幼い頃から、絵を描いたり、物を作るのが大好きでした。それで、岡山県の芸術大学に進みました。絵画や彫刻、映像制作を学び、将来は、アーティストになりたいと思っていました。
学生時代は、芸術だけでなく、スポーツをしたり、友人と遊んだり。彼女もできて、「次はあれして」「これして」……と、楽しいことばっかりでした。
特に熱中したのが、バイクです。友人と海や山へツーリングに行ったり、バイクを改造したりして、とてもはまっていましたね。アルバイトも、バイクのためにしていたようなものです。スピードを出して、スリルを味わうのが、大好きでした。
目先の楽しみを追い求め、遠い未来は考えていなかった。死ぬことも……。いつかバイクで事故に遭うのではないかと思いながらも、スピードを出し過ぎていたこともありました。今、振り返れば、バカだったなあ……と思います。
トラックがバイクに……全てが暗転した18歳の冬
――バイク事故というのは、どんな事故だったのですか。
大学1年の冬の朝、バイクでいつもより少し早めに学校へと向かった時のことです。交差点を通過しようと直進した時、2トン半のトラックが突っ込んできたのです。頭を強く打って、脳内出血と脳挫傷、足は粉砕骨折しました。左腕は、ぶつかってもバイクを離さなかったために、腕の神経が引きちぎられてしまい、生死の境をさまよいました。医者からは、「生涯寝たきりかもしれません。もし、意識が戻っても、失明と言語障害は覚悟してください」と告げられたそうです。病院の帰りは雨が降っており、父の運転する車の中で、母は生まれて初めて大声で泣いたと聞きました。
母は私に付ききりで、父は仕事をしながら、香川から瀬戸内海を越えた岡山の病院まで、20数回も往復して、快復を念じてくれたそうです。ようやく意識が戻ったのは、1カ月も経ってからでした。
――大変な事故だったのですね……。
何とか意識は戻ったものの、手足に後遺症が残ってしまいました。足を1回、腕を3回、手術しました。胸や背中、足、首にも、300針ほど縫われて。
特に、腕の手術は、両足から神経と筋肉を移植するという大がかりなもので、1回の手術に8時間も掛かりました。手術が成功すれば、力を入れたらブラブラの左腕でもカバンくらいはさめるようになると聞いていたのですが、望んだ結果は得られませんでした。
体はやせ細り、足に力が入らなくなって、階段の昇り降りもまともにできず、苦しみました。高校時代、柔道部で鍛えていたので、体力には自信があったんですが、それも吹き飛んでしまった……。
「こんな体で生きていかなきゃならないのか」「この先、どうしよう……」と思うと、絶望的な気持ちでした。
障害に負けたくない。が―
その反面、「障害なんかに負けたくない」という気持ちもありました。治療とリハビリに耐えた1年後、やっと退院でき、大学に戻ったのです。
大学では、映画制作に没頭しました。片手、片足、口も使って、大道具や小道具を必死に準備し、機材を運んで、毎日、カメラを回しました。それは痛みとの闘いの日々でもありました。痛み止めを飲んでも治まらず、つらさと悔しさで、耐えられずにトイレに駆け込んで泣いたことは、1度や2度ではありません。それでも歯を食いしばって仕上げた作品が、やがて、教授に認められるようになったのです。
ところが4年生になり、就職を前にして、自信は打ち砕かれました。希望した映像制作会社にも、テレビ局にも入れませんでした。能率が優先される社会で、ハンディキャップを抱えた私は、どうすることもできなかったんです。
そんな矢先、2年間つきあっていた彼女にもフラれてしまって。今まで必死で求めてきたものに、どんどん捨てられていくようでした。
「一体オレは、何をやってるんだ。どんなに頑張っても、一生この苦しみと痛みからは逃れられない。必死に生きて、その先に何がある? 死ぬほどの事故から救われたのに、助かった命なんて喜べない!」
心が悲鳴を上げていました。
バイク事故に遭ったオレの、生きる意味は
――助かった命が喜べない……。そんな悲しみの底から、救ってくれたものは、何だったのでしょうか。
当時、たまたま母が手渡してくれた1冊の本があったんです。それは『なぜ生きる』というタイトルでした。
「えっ?」と不意を突かれたような心地でした。「なぜ生きる」……なんて、それまで考えたことがなかった。でも読み始めると、冒頭から衝撃で、どんどん引き込まれていきました。
二階から駆けおりるなり、父をたたきながら叫んだ母の声は、今も耳の底から離れない。立ちすくむ私の目の前を無言で通り過ぎた父は、二度と家には戻りませんでした。小学生だった私が離婚という言葉を知り、悲しい事態を理解したのは数カ月たってからのことです。涙に映っていたものは、なんの前ぶれもなく、幸せがいとも簡単に崩れ去るという現実でした。
どんなに堅固そうな幸福にも、破局があるのではなかろうか。いつ何がおきるか分からない、そんな不安定な人生に、どんな意味があるのだろうか。
ひとは、なんのために生きるのか。
平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、この問いに真剣な解答が迫られます。
(『なぜ生きる』明橋大二/伊藤健太郎著)
そうか、オレは今までまどろんでいたんだ……。そのまどろみが破られて、今、人生の解答が迫られているのか……!と。
さらに、心をつかまれたのは、こんな言葉でした。
(『なぜ生きる』)
そうだ、生きる目的がハッキリすれば、オレも生きることができるんだ!!!と分かったのです。
バイク事故で死ななくてよかった……!
第2部では、仏教に、苦しくてもなぜ生きねばならないのか、という問題の答えが示されていることに驚きました。ただ、分かる所はよく分かったんですが、深い仏教の哲学から書かれた本は難しくて。それでも、これが本当の仏教なのか!という驚きと感激が同時にあり、以来、仏教を学ばずにおれなくなりました。
私は18歳の時の事故により、その問題「なぜ生きる」の解答を迫られましたが、これは私だけでなく、全ての人が向き合わねばならない問題と思います。
近年、国内でも、地震、津波、無差別殺傷事件、延命問題、命の意味が抜け落ちた議論がなされています。世界に目を向けても、テロや貧困、核などの問題は絶えません。
そんな不安な世界にあって、なぜ生きねばならないのか、答えは示されているでしょうか。
私は今でも左腕は使えずに痛み、左足はひきずっていますが、あのバイク事故がなければ、最も大切な人生の目的を知ることはできなかったと思います。
余談ですが、その後、私は出版社やデザイン事務所などで、アルバイトを重ねて腕を磨き、さらに実務経験も積み、念願の映像職に就くことができました。
痛みが軽減された手術法
――バイク事故の後遺症にも屈しない斎藤さんの原動力が、よく分かりました。後遺症の痛みは、その後、いかがですか。
私の左腕は、バイクを離さずにいたために、左腕の神経が脊髄から引きちぎられるという、専門用語で「腕神経叢引き抜き損傷」という状態で、就職後も、天候の影響で、のた打ち回るほど腕が痛んで、夜も眠れず、仕事を休まねばならない日もありました。
ところが、「痛みの神経を電気で破壊することによって、痛みが軽減される」と教えてくれる医師に出会い、つい最近、「脊髄後根侵入部微小凝固術」という手術を受けました。おかげで痛みがだいぶ和らいだんですよ。私と同じ状態の人がいたら、一度、検討されてみたらいいと思います。
――最後に今の夢を聞かせてください。
私のように事故や病気で苦しんでいる人に、健常者も障害者も差別なく、本当の幸せになれることを、映像を通じて伝えていきたいです。
――ありがとうございました。
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