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暗雲
南原浩二が赤城晴美を会議室に呼んだ。
秋のイベントの打ち合わせだろうと思い、資料一式を手に、息を切らしてドアを開けた。
ところが、会議室の空気が思いがけず暗い。晴美の脳裏に、北陽銀行が吸収合併されたときの南原の顔がよみがえった。
「社長、どうかなさいましたか」
南原は視線を落とす。「実は、サンシャイン銀行からクレームが来たんだ」
「サンシャイン銀行の上層部からだ。俺をかわいがってくれていた人なので、直接言ってくれたんだが、珍しくお怒りだった」
「ひょっとして、つながり作戦でご立腹なのでしょうか」
南原がため息をついた。
「ああ。フォーユーを名乗る若い女性たちが、サンシャイン銀行の退社時間に出入り口で待ち受けて、インタビューを取っているそうだ。シホとナオかな。最近みんな張り切っていただろう。一人でも多くの声を聞こうとしていたんだろうな」
「え。あくまでも友人の範囲、って決めていたのに……」
「仕方ないさ。悪気なんかないんだ」
南原はまったく怒った様子はなく、穏やかに笑う。
「それでな、サンシャイン銀行のお偉いさんが言うには、申し訳ないが期待に添えないだろうからプレゼンを辞退したい、したがって聞き込みも中止してほしい、ということなんだ」
晴美は目の前が真っ暗になった。
「プレゼンもさせてくれないのは、さすがに困ると言うと、では早急に現時点での方向性を見せてくれ、と。うちの行員へのヒアリングはもうこれくらいにして、プレゼンするなり中止するなりしてくれ、ということだった」
会社を倒産から救おうと、若手と一体になって励んできたつながり作戦だった。しかし、当のプレゼン先から拒まれてしまっては、元も子もない。自分のアイデアが会社に迷惑をかけた申し訳なさで、晴美は消えてしまいたいような気持ちだった。
「で、どうする?」
「申し訳ございません。いかようにでも、社長のご判断に従います」、晴美は頭を下げた。
「じゃ、『社長のご判断』を晴美がやってみるのはどうだ?」
「えっ?」
「もちろん、最終判断は一緒にやろう。みんなとも話そう。だけど、つながり作戦を中止するか、代替案を出すか、まったく方向性を変えるか、ここは意思決定が必要なところだ。自ら起案して今日までみんなを引っ張ってきたのは、晴美、お前だ。お前なりに、このことを意思決定してみたらいい。ただ時間がない。今週中に意見を聞かせてくれ」
晴美が唖然として会議室を出ると、外出しようとしている悠人とぶつかりそうになった。
「どうしたんですか、ねえさん。顔色悪いですよ」
「ああ、ごめん。悠人、外出?」
「実はですね、前に僕が怒らせちゃったサンシャイン銀行の女性の方から、連絡がありまして。また怒られるのかな。まあ、行ってきます。今度はふざけませんから、安心してください」
快活に出かけていった悠人を見送りながら、晴美はさらに不安になった。あのご立腹だった女性、何の用件だろうか。
ここにきて、つながり作戦がおかしなことになっている。どうしよう……。
『歎異抄』で考える
その夜、晴美は自宅で思索にふけっていた。
(どうしよう、どうしよう……)
晴美は動揺していた。先方からクレームが来た……会社のために考えたことが会社の迷惑になってしまった……自分を責める気持ちでいっぱいだった。
(だめよ、感情的になっている場合ではないわ。意思決定しなくては……)
ふと、この間の勉強会を思い出した。
晴美は静かに深呼吸をして、濃紺の『歎異抄』ノートを開いた。
『歎異抄』には、私たちが住んでいる世界を「火宅無常の世界」と記されている。
「火宅」とは「火のついた家」のこと。隣家の火が、わが家のひさしに燃え移り、どんどん自分に迫ってくる。そんな家にいたら、不安しかないだろう。
人生には、不安が満ちている。なぜ不安が尽きないのかといえば、「無常(常が無い)」の世の中だからだ。
ブッダは「諸行無常(全てのものは続かない)」と説かれている。
家族や友達、お金や才能、若さ、健康など、私たちは、いろいろなものを頼りに生きているが、いずれも「無常」だから、「いつか崩れる」という不安があって、心からの安らぎが得られないのだ。
「そうだった。無常なのは、今に始まったことではなかったわ」
サンシャイン銀行からクレームが来たことは、たしかにショックだった。
しかし、冷静になって考えてみれば、クレーム自体はどこの会社でも起こりうることだ。
つまり、聞いたことのない大事件、例外的な問題ではなく、よくある問題なのではないか。
晴美は少し、落ち着きを取り戻してきた。
続けて考えてみよう。
(そもそもフォーユーは、どうあるべきなのか)
そう思ったとき、秋のイベントタイトルが頭に浮かんだ。
「『働く』富山にフォーユー精神を広めたい」
ずっと社長が掲げてきている、この言葉こそが原点だ。
周囲を幸せにするままが、自分が幸せになる。
勉強会で学んだ、「自利利他の精神」と通じる。
晴美の思考が、すっと正しい道に戻った。
サンシャイン銀行からのクレームを解決するために最低限必要なことを、相手の立場に立って考える「フォーユー」精神の原点に基づいて考えればよい。
晴美はしばらくの間、腕を組んで考えた。「あっ、そうか!」
(サンシャイン銀行がうちの研修を受注してくれること、それは必要条件ではないわ)
(必要なのは、サンシャイン銀行の社員が輝いて働くことだ。だからイベントを開くんだった!)
晴美は過日、南原社長と五木あかねの前で啖呵をきった自分の言葉を思い出した。
――私たちフォーユーは「研修を売る」のではなく、「働く」の可能性を高めるためにあるべきだと思うんです。
そう考えると、つながり作戦は中止すべき、という考えが浮かんできた。
(その代わり、秋のイベントのチケットを低単価でサンシャイン銀行に販売し、たくさんの行員さんに刺激を受けて輝いてもらう、というのはどうだろう……)
研修ではなくイベント参加という形式ならば、いろいろな企業の従業員同士が一堂に会して、いつもと違う刺激を受けることができるはずだ。
しかし、この時、悠人やシホやナオの顔が思い浮かんだ。
(もしもつながり作戦を中止したら、みんながっかりするだろうな)
これまでの労力が水泡に帰すのは、たしかにみんなを落胆させるかもしれない。
しかし考えるべきは、「受け入れてくれそうな案」ではない。「何が正しいか」なのだ。
(みんなの顔色で意思決定しちゃだめだなんだ……。だから中止は怖くない。フォーユー精神の原点と、時代を超えて読まれている『歎異抄』に立ち返って考えたのだもの。この意見で、いいはずだわ)
霧の中にいるようだった頭の中が、どんどん晴れていくような気がした。
そうと決まれば、次は、「どう行動を変えていくか」である。
勢いづいて、晴美は白い紙に具体的行動を書き出していった。
「この意思決定を社員みんなに伝達する」
「秋のイベントの詳細を詰める。チケットの値段を明らかにする」
「新たな企画書を作成し、南原社長に同行してもらってサンシャイン銀行にプレゼンに行く」
「他のクライアントにも広くリリースする」……
すべての行動は、原点に基づいていなければならない。
「フォーユー精神」に則ってプレゼンしなければならない。
自社の社会における役割を果たしていなければならない。どんどんアイデアが湧いてきて、思いの丈を書き尽くした。
その時、『歎異抄』の「煩悩具足の凡夫」という言葉が目に飛び込んできた。
「我、必ず聖に非ず、彼、必ず愚に非ず、共にこれ凡夫のみ」という聖徳太子の言葉も、並べて書かれている。
人は間違いを犯す。最善を尽くしたとしても必ずしも最高の決定を行えるわけではない。最善の決定といえども間違っている可能性はある。
やってみてどうだったかを検証できるようにしておかなければならない。検証できれば、次の行動に向かってブラッシュアップできる。
(継続できるイベントに育てていくことが大切だわ)
そのために検証すべきは、原点に照らし合わせて、参加者の「働く意識」が高まったかどうかを確認することである。
ピンチはチャンス
その週の会議で、晴美は考えた内容をみんなに伝えることにした。きっと賛同を得られるだろうという思いで、丁寧に説明した。
すると、悠人が即座に言った。「ねえさん、僕は反対です」
晴美は驚いた。あんなに緻密に考えたのに、どうしてわかってくれないんだろう。これまでの労力を考えれば、中止にしたくない気持ちは分かるけれど……。
悠人を否定したい気持ちに駆られた晴美の脳裏に、勉強会の一節が思い浮かんだ。
(そうだった。まずは悠人の反対意見を聞こう)
晴美は感情を抑えて言った。「じゃあ、悠人の意見を教えて」
悠人は、改めて姿勢を正し、みんなに紙を配り始めた。
「僕は今日、その話がなくても、みんなに伝えたいことがあったんです。うまく伝えられるかどうか自信がないので、紙にまとめてきました」
・一度、取材を断られたIさんより連絡あり、指定の喫茶店にて取材。
・取材を断った理由は取材者の軽薄な態度にあったが、本当は「伝えたいこと」があったようだ。
・一度断ったものの、「伝えたいこと」をやはり伝えなければと思い連絡した。
・「伝えたいこと」とは、現行の研修に対する社内の不満。ベテランは若手の意欲をわかってくれない、若手の意欲が消沈していくのを見ていられない、この現状を外部の目線ですくい取って上層部にぜひプレゼンしてほしい、ということだった。
「このIさんですが、みなさんもご存じの通り、僕の冗談連発のコミュニケーションが嫌われて、インタビューを断られました。にもかかわらず、先方からご連絡いただいたので、僕たちの活動全体に対してご立腹なのかと思い、謝るつもりで行きました。
Iさんは最初、緊張されていましたが、でも、はっきりとおっしゃいました。ベテランは若手の意欲をわかってくれない、若手はそれに失望し、意欲が消沈してしまう。この若手の気持ちを、今回のフォーユーさんのヒアリングで明らかにして、上層部にプレゼンしてくれたら私たちも嬉しいんだ、という話だったんです」
会議室が驚きに包まれた。
「驚くのはこのあとなんです。Iさん、こう言ったんです。フォーユーさんは、『働く』富山にフォーユー精神を広めたいんでしょ、って」
「えっ!」、晴美が立ち上がりそうなほど驚いて声を出した。
「あの、伏せておいたほうがいいかと思いましたが、やっぱり共有すべき情報だと思うので言いますね。Iさんの名字は、『五木さん』なんです。五木あかね先生の義理の妹さんだったんです。
彼女があかね先生と会ったときにフォーユーの取材を断った話をしたら、えらい剣幕で怒られたそうです。あなたたちがもっといきいきと輝いて働くことを考えている会社なのよ、『働く』富山にフォーユー精神を広めたい、っていう会社なのよ、って」
思わぬ五木の言葉に、みな言葉を発せられずにいた。
原点はこうして仲間をつなぎ、人の思いを熱くする。南原は、黙って目頭を押さえた。
晴美は言った。
「オッケー。最高のヒントが来たわね! さあ、どうする? フォーユーがなすべきことは何?」
「ねえさんの意見と違う展開だけど、いいんですか?」
「うん、サンシャイン銀行の社員にいきいきと働いてもらいたい、というゴールは変わらないもの。むしろ反対意見が出たことで、より深まったわ」
いまとなっては、悠人の反対意見に晴美は心から感謝していた。
意見の不一致はもっともらしい決定を正しい決定に変え、正しい決定を優れた決定に変える。
南原がみんなを見回して言った。
「さあ、どうする? みんなの意見を言ってみてくれ」
メンバーたちが我先にと話し始めた。
「どっちにしても、ここまでやってきたつながり作戦の内容をいったんまとめましょう」
「せっかくやったんだから、やっぱりプレゼンさせてもらいましょうよ」
「もし受注できなくても、上層部に若手の声が伝わるだけでも意味あるかも」
「五木先生の義理の妹さんの想いに応えたいです!」
「秋のイベントにもいい形でつながるかもしれないし」
一人ひとりが本音で、本気で、意見を出していた。
南原が言った。
「ようし、わかった。プレゼンしよう! 働くのって、最高に素晴らしいことだって、サンシャイン銀行にプレゼンしようぜ」
泥船は甦った。船は動き出した。そして風も吹いてきた。
みんなの顔が輝いていた。
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