幸せとは

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【虚無病棟】田中進一の世界(三月十三日)『フライザイン~死に対して自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語』

 僕のドンヨリとした気持ちと裏腹に、大学のキャンパスには輝く笑顔と陽気な笑い声があふれている。ついでに猫ものんきに耳をかいている。

「ふう」

 灰色の息がもれる。
 今から〝 最後の望み〟をかけ、教授の部屋へと行くところだ。緊張という名の獣がぼくの心の中をウロウロしている。そいつに襲われないよう、うまくやりすごしつつ、目的地である木製ドアの前へ最後の歩みを進めた。
 歴史の重みを感じさせる濃い茶色の扉。そこに立つ僕は、千古の扉を押し開かんとする考古学者のような心持ちになる。謎が解けるかどうかは、この扉の向こうの人物にかかっているのだ。

「ふう」

 今日、何度目かのため息をつき、後頭部を指で掻いてから足元の〝 相棒〟を見た。今日の〝 相棒〟は、すすけた感じの、尾曲がり猫だ。僕は仮に〝 マガリン〟と名づけている。確か、尾曲がり猫は長崎にルーツがあると『長崎ねこ学会』の人が発表したと記憶している。

 マガリンを抱きかかえて、アゴの下をなでてやると、目を細め、気持ちよさそうにノドを鳴らした。その顔を見ていると、すべては何も問題ないように思えてくる。肉球握手を交わし、静かにマガリンを床においてから、深呼吸した。

 ノック。
 反応がない。もう一度ノック。

 部屋は沈黙を守っている。おかしいと思い、事務所に行ってみると、教授は、この二日間、関東に行っているそうで、今度来るのは明々後日だという。

 僕は迂闊だった。ホントにバカだ。教授が毎日来ているとは限らない。当たり前のことだ。初歩的なミス。我ながら情けなくなり、ガックリと首をうなだれながら、外へ出た。爽やかな風が身体にそよめくと、逆に僕の心には木枯らしが吹きすさび、「ふう」と、やるせない息がこぼれた。マガリンは顔よりも大きなあくびをしている。僕はどうしようもなく、日課として春奈のところへ行くことにした。

 阪急電車に乗り、御影(みかげ)駅で降りる。駅前にあるバス停から病院行きの市バスに乗った。道中、妹にどんな話をすればいいか考えた。だけれど考えるほどに憂鬱な気持ちは深まっていく。
 平和そのもののバスは、僕の気持ちなど全く知るよしもなく、ふつうに病院前に着いた。文鎮のように重たい気持ちで春奈の病室の前に立ち、ノックする。

「どうぞ」

 妹の声が中から返ってきた。
 入ると、春奈はいつものポーカーフェイスで僕の顔を見た。癖なのだろう、口の前で掌をクロスさせ蝶の羽のような形をつくっている。十の長い爪は皆、黒く塗られ、そこから異様な黒光りを放っている。

「どうですか、哲学の教授は。何か参考になることを言っていましたか?」
「いや、今日訪ねた教授は休みだったみたいだ」
「あれあれ」

 妹は、さもバカにするような声で言った。

「そんなので大丈夫なのでしょうか」

 他人ごとのような妹の態度にカチンときた。こっちは不器用なりに一生懸命やっているんだ! でも、精神が不安定な妹をどなりつけるわけにもいかず、グッと感情を内臓深くに押し込み、出来るだけおだやかに言った。

「なあ春奈、もう一度考えなおさないか?」
「説得のしなおしですか」
「だってさ、お前まだ高校生だろ。結論出すには早すぎるよ」
「高校生だってバカにしないで下さい。こういう問題は、分かる人には高校生でも中学生でも分かるし、分からない人は、どれだけ年をとっても分からないものなのです」
「だけど」 
「お兄ちゃん。そもそも、どうして自殺はダメかって説明できますか?」
「説明も何も。悪いに決まってるだろうが」
 妹の顔に、あきれるような表情と、いら立つ顔つきが、まだらに表れた。

「ではお兄ちゃんにお聞きします。芥川龍之介も、太宰治も、川端康成も、ヘミングウェイも、み~んな自殺で死にました。では、この人たちは、ただのバカでしょうか」
 そう言われると自殺は駄目だから駄目では通用しないように感じられた。

 やっとのことで「で、でも親が悲しむだろ」と言葉をひねり出す。しかし、「では、親がいない子供は自殺してもいいということですか?」とスグに論破された。
「と、とにかくさ、生きて欲しいんだよ、理屈じゃなくって、とにかく死んでほしくない!」
 妹は、軽く笑ってから言葉を継いだ。

「お兄ちゃん、それは勝手なエゴです。私の命は私のもの。どうして他人の願いに左右されなくちゃいけないんですか。そもそも死んではいけない理由になってません」
 妹が言うことに何も言い返せなかった。新たな方向で攻めるしかない。

「だけど、大切な命じゃないか」
「なんで大切なのかって聞いてるのです」
「なんで大切かって……」

 どうも僕と妹では前提が全く違うようだ。それにしても、一言も妹をうなずかせることが出来ない。それどころが、すべて一撃で粉砕されてしまい、みっともなくオロオロする心をどうすることもできなかった。

「あ、あのさ、その命の大切さを探すことが生きる意味なんだと思うよ。だから、生きる意味を探すこと自体がさ、生きる目的、じゃ、ないかな?」
 しどろもどろになりながら、自分としては上出来と思えるひらめきを口にしてみた。

 しかし、春奈は、はあ、とため息をつき、
「それ、すごく他人ごとですね。春奈は、生きる意味を〝探したい〟のではなく、〝知りたい〟のです。答えを知りたいのです。」
「そ、そりゃあ、そうだろうけど」
「そうだろうけどではありません」
「え、えっとな、ちょっと待てよ、うん、そうだ、生きるために生きてるんだよ。誰かそう言ってたし」
「まったく意味がわかりません。春奈は、生きるのが嫌だと言ってるのです。なのに生きるために生きろは意味不明です。お兄ちゃんは、走るために走れっていうんですか? それは、ゴールのない円形トラックを走れというようなものです。燃料尽きて墜落するまで飛行機を飛ばすようなものです。
 生きるために生きるのがいいというのなら、私は生きるのは嫌だから嫌だっていいます」

 しごくごもっともな答えに思えた。


「そもそも、お兄ちゃんはどうなのですか? その大切な命とやらで何を手に入れたのですか?」
 そういわれると困った。一体僕は、今まで何を手に入れたのだろう。正直いうと僕が手にしているのは〝 退屈〟の二文字だけのような気がしてきた。
 妹に同調しかけて、まずいまずいと心の中でかぶりを振る。そして僕は〝 いつかは〟に希望をかけ、またもやどこかで聞いたセリフをそのまま口にした。

「なあ、春奈、生きてればきっといいことあるって」
「例えばなんでしょう?」
「え、えっと、そのなんだ、なんかの賞をとるとか、えっと、そうだな、すてきな結婚とか、うん、そうだよ、お前だったら、きっといい人と結婚出来るぞ」
 おだて半分で気をよくさせれば効果があるかもと少し期待した。

 妹は、ハハっと乾いた笑いの言葉を発してから、
「有難う、といいたいところですが、そんなものではありません、春奈が求めているのは」と言った。
「いや、結婚はまだ早いかもしれないけど恋人つくるとか、そうだな、うん、大学にいったら色々出来るぞ。旅行に行ったり、スポーツしたり、飲みにいくのもいいかもしれないな」

 一生懸命、思いつくまま口にしたが、春奈はまたも、はあ、と息をついて首を横に振った。
「春奈が求めているのはそんなものではありません。それらを否定はしませんが、本当に必要としているものはそういうのではないのです」
「じゃ、じゃあ、どういうものを求めてるんだよ」
 妹は、視線を合わせないまま髪をいじっている。

 少し息を吐いてから「きっとお兄ちゃんには分からないでしょう」と小さく言った。
「分かるか分からないかは言ってみないと分からないだろ」
 妹は手を首のあたりに当てたまま沈黙してしまったが、僕がじっと見守っていると、少しずつ話し始めた。
「お兄ちゃんには分かりますか、生きている実感がないという感覚を」
「え?」
「春奈の身体には心臓があって血も流れてるみたいですし、肺もあって呼吸もしているみたいですけど、生きてる実感がありません」
 僕は見開いた目を細め、春奈の横顔を見つめた。

「生きているのは惰性にすぎないのです。単なる妥協です。ごまかしと言うほうが適切かも知れません。とにかく春奈は自分を生きてないのです」
 声をかけようとしたが、全身が弱々しく震えただけだった。

「いつも独りです、友達と話してても。話してるのは友達仕様の春奈であって、ほんとの春奈ではありません。だから友達と一緒に笑えば笑うほど空しくなるのです。演技に疲れてしまうのです。そしてもう何もかもどうでもよくなってしまうのです」

 春奈の視線は空間に漂っている。無表情のまま淡々と口を開き、日本人が慣習的に共通のルールとして決めてある言語を発音し続ける。
「前、ちょっとお付き合いしてたこともありましたけど、いつもいい子を演じなきゃいけないようですごく疲れました。気に入られようとして、嫌われないようにして、それがすごいストレスでした」
「春奈……」
 妹の顔は血のぬくもりが欠けている。

「もう、とにかく生きることを休みたいです。春奈は、初めから存在しなかったことにして欲しいのです。どっちみち人は皆、死ぬのですから」

 僕にも妹の気持ちが分からないでもない。大なり小なり、同じような生きづらさは感じていたから。けれど、何て声をかけてやればいいのかは皆目分からない。結局、「生きる意味、必ず見つけるよ」とだけ言い残し、力なく病室を出た。

 中途半端にため息をつき、顔を上げるといつもより廊下が細長く感じられた。閑散とし、白い壁、白い天井、白い廊下が続いている。『虚無病棟』、そんな言葉がフイに胸に浮かぶ。
 そして、突然のように疑問が、紙に書かれた言葉のように、クッキリと頭の中に描き出された。

《生きる意味が分からない状態は、人間としての健康が保たれているといえるのだろうか? もし、この地球全体が虚無病棟だとしたら……》

 目を外に向けると、淡い青が一面に広がっていた。眼下には春を待つ桜並木、その向こうにはジオラマのような町並。
 僕はmp3プレーヤーに手をやり、春奈の自殺未遂を発見した時に聴いていた曲『ビコーズ』を選ぶ。ジョンとポールとジョージのハーモニーが静かに聞こえてきた。

 毎年、年間約三万人といわれる日本の自殺者。
 九十人近くの人が命を断たなければ一日が終わらないこの国。

 いままで無機質だった数字が、一人の妹によって息づかいあるものに感じられ、三万という数が脅威に思えた。三万の人には、それぞれ名前があり、家族があり、心があるのだ。それが失われてしまったのだ。

《僕は三万どころか、一人の妹すら救えない》

 見あげると、空一面に、何万もの不気味な顔が浮かんで見えた! それらが皆、僕をあざ笑っているようだ。

「一体どうすればいいんだ」
 数万の顔に向かって、叫びたくなる。
 病棟はやけに静まりかえっていた。

タイムリミットまで、あと二十八日

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