幸せとは

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【海底奥底で発せられたような言葉】早稲田美桜の世界(三月十二日)『フライザイン~死に対して自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語』

【海底奥底で発せられたような言葉】早稲田美桜の世界(三月十二日)

 昨夜、龍一郎は緊急入院した。
 検査の結果は昼に出たのだ。電話があったから間違いない。

 そう、さっき。
 ついさっき。

 その証拠に手にはスマホが握られているし、電話が切れたあとの機械音がまだ鳴っている。

 今、聞いた龍一郎の言葉はとても大事なことだった、と思う。でも、今なされたばかりの会話がなぜかうまく思い出せない。記憶をたどってみてもうまくいかない。それは、いつも同じ場所においてあるはずのモノが見つからず、記憶の追跡調査をする作業に似ていた。

 なぜだろう、鼻の奥がツンとして、心がクシャクシャになっている。何を聞いたのだろう。

 確かに龍一郎は、時々つらそうな顔はしていたけれど、ピアノも弾いていたし、バイクだって普通に乗っていた。だから、電話でそんな大したことは言わなかったに違いない。思い出せないから不安になっているだけなのだ。きっとそうだ……。

 一つ思い出した。転院先だ。昨夜の病院から移されたのだ。そう、龍一郎はポートアイランドにある病院にいると言っていた。それから、それからもう一つ。あの時は妙に冷静になって質問していたはずだ。何を聞いたのだろう。確か、そう、確か部屋番号を聞いたのではなかったか? 

 見れば、手にメモがあり、自分の筆跡で三桁の番号が書かれてあった。

 机の縁に手をあて体重を預ける。息を止めながらやっとのことで立ち上がったが力が抜け、へたり込む。もう一度、身体を押し上げる。今度は一歩足を踏み出すことが出来た。夢遊病者のように一歩二歩と歩き始めた。

 院内はかなりの混み具合だった。掲示されている見取り図で龍一郎の部屋を探したがなかなか見つからない。身体全体がモヤに覆われているようだ。アルコールの匂いが頭を変にさせる。 

 やっとのことで部屋にたどり着く。架けられている名前は何度見ても、〝 滝川龍一郎〟。むしょうにゴシゴシ消したくなる。

《龍一郎、その趣味の悪い冗談を許してやるから》

 心の中でつぶやき、部屋へ入ろうとしたが、ドアのノブがうまくつかめない。やっとつかめたと思った時、ノックがまだだったことに気づく。不足している酸素を補給してから、左手でドアを叩いた。

 聞き覚えのある返事が小さく耳に届き、ドクンと心臓の音が鳴った。目を固く閉じ、ドアを開く。静寂の中、少しずつ瞼を緩める。
 果たしてベッドの上に龍一郎がいた。
 まったく似合わない水色の入院着を着ている。

 瞬間、龍一郎以外の風景が消えた。
 耳の奥がキーーンと鳴る。
 前触れなしに、電話で聞いた龍一郎の言葉が頭の中で再生された。
 それは海底奥底で発せられた聞こえるはずのない言葉のような奇妙な響きだった。

「ガンだった
 スイゾウからイにテンイ
 シュジュツ出来るかはミテイ」

 ガン
 スイゾウからイ
 テンイ
 シュジュツ

 まるで献立表を読み上げるように言葉を繰り返した。
 単語がつるつるしてうまく掴めない。
 イメージ出来た言葉から少しずつ理解していく。

 スイゾウ、膵臓か、心臓より下にあったな、裏っかわにある臓器。
 イは、あの胃だな。
 シュジュツ、手術。
 ガン、癌。
 テンイ、転移……
  
 頭を左右に振る。
 こめかみを押さえ、もう一度、軽く頭を振る。
 何を馬鹿な。何を馬鹿な。何を馬鹿な。
 おかしい。何かがズレてしまったのだ。悪い冗談だ。イタズラだ。誰かの嘘だ。大嘘だ。

 ペタリペタリと龍一郎のもとへ近づく。
 龍一郎は、静かにこちらを見ている。
 ベッドの横に立つ。
 もう、手を伸ばせば龍一郎の身体に届きそうだ。
 視線が、縺(もつ)れあう。
 それは、クレヴァスに落ちかかり、友の手をつかむような視線でもあった。

 龍一郎の表情が和らぎ、唇が、ゆっくり開く。
「悪いなミオ、とんだ迷惑をかけた」
 吾輩は小さく首を振った。

「対処がものすごくよかったって医者が褒めてたよ」
「大したことはしてない」 
 直後、しばしの沈黙が部屋を占領した。

 やがて、わずかに逸らしあっていた視線が、合図でもしたかのように、同時に合わせられた。
「心配ない」
龍一郎は、そう言って笑った。
その優しさに、胸が締め付けられる。

 その時、ドアが開く。振り返るとそこに、頭から湯気を立てた赤鬼、もとい、龍一郎の母上が……。

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