幸せとは

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【ステージ4b】早稲田美桜の世界(三月十二日)『フライザイン~死に対して自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語』

【ステージ4b】早稲田美桜の世界(三月十二日)

 病院からの帰り、独りポートライナーに乗った途端、ズシリと胸にくるものがあった。
 それは〝 現実〟。
 夢ではなく、冗談でもなく、これは現実なのだ。

「癌だった。
 すい臓から胃に転移。
 手術出来るかは未定」

 リアリティをもって浮かび上がる龍一郎の言葉は、まるで実体のある物のように帰り道の一歩一歩を重くさせた。
癌、転移、手術、そして、死 そんな言葉がグルグル頭の中を廻った。二十本の指の先までが澱み、あらゆる毛細血管に毒素が巡っていくようだ。

 不条理な世界を呪う思いが猛烈に沸きあがる。どんなに呪ったところで世界は変わらないと知りつつも止めることは出来なかった。

 行く先を失った思考が宙を彷徨(さまよ)う。
 意識レベルではなく、もっと深いところからくる得体の知れない不安、不気味で不吉な心……。

 家に着くと、抜け殻を放り出すようにベッドにうつぶせる。

 再び顔を上げた時は、月光が部屋を蒼白くさせていた。窓際に立ち、遠く夜空を見上げる。うっすら浮かぶ月は、異様なものとして目に映れた。
ショパンの『夜想曲(ノクターン)二番』のメロディが、空虚な心に流れ始めた。鍵盤を踊る細長い龍一郎の指が鮮明に思い出される。

 どれくらいの時間が過ぎたであろう。ゆっくりと身体を移動させ、机に向かった。電気が消えたままの部屋でネットを立ち上げ検索をかける。いくつかのサイトを軽く覗いてから、一つを選んだ。明朝体で「すい臓がんについて」と書かれているページが闇の中で光っている。

 すい臓:
 
『お腹の臍の上部分から左寄り。胃の後ろに横たわるようにある臓器で洋ナシを横にしたような形をしている。大きさは笹かまぼこ程度。
 他の臓器の後ろに隠れているため、癌が発見されにくい。
 肝臓とともに〝 沈黙の臓器〟と呼ばれている』

 読み進めていくと、『膵尾部(すいびぶ)』という単語が目に飛び込んだ。 龍一郎の癌は、ここにあると医者から告げられたのだ。

  膵尾部

「すい臓の中でも一番奥の部分にある。ここに腫瘍が発生した場合、90%が進行型。
 五年以上、生きられる人は一割もいない。
 最も治らない癌の一つ」

 眩暈。
 呼吸がうまくできてないことに気づき、呑みこんだ息を全身で吐き出す。目元を指で押さえた後、顔を大きく左右に振らせ、脳に刺激を与える。
 顔の中じゅうが、酸味の深い異質なニオイで充満したようになる。

 吐き気
 吐き気
 吐き気

 もだえる身体を何とかなだめ、深い呼吸を繰り返し、メガネを押し上げ、改めてディスプレイを見る。

「治療の基本となるのは、手術。
〝 すい臓がんを治すには、手術によりガンを切除するしかない〟という説もある。
 膵臓がんは、病状により大きく四段階に分かれるが、【ステージ4b】になると切除手術は行えない。
 すでに離れたところまで転移があるから積極的な治療はせず、痛みを取り除く緩和医療で、死を待つだけとなる場合が多い」

 やり場のない怒り。
 じっとしていたら不安に絞め殺されそうで、息を荒げて立ち上がり、部屋を歩き回る。枕を手に取り、壁に投げつける。
 ベッドに倒れこみ、世の中を呪った。

 なぜ!
 なぜ!
 なぜ!

 突然、どこかで引用されていた子どもの言葉が思い浮かぶ。
「神さまは、どうして病気をつくったの?」
 仰向けになり、手で顔を覆った。悪い予感が胸に過ぎる。

 否、
 否、
 三度、否!

「心配ない」そう言った龍一郎の顔が浮かんでくる。その姿を抱きしめようとしたら霧のように消えていった。そして、出て行ってと叫んだ赤鬼の声が蘇る。
月光に照らされた蜘蛛が目に入る。外で犬が吠えた。
「初期であってくれ」
 祈るような言葉がこぼれ落ち、これもまた消えていった。

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