「なぜ生きる」の答えはわずか漢字2字で答えられる~幸せと本当の幸せの違い(1)
人生の目的(なぜ生きる・生きる意味)の答えはわずか漢字2字で答えられます。目先の目標にとどまらない、自分が本当の幸せになれるヒント。
もし、「人生の目的」がなかったら、大変なことになります。
生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうからです。
なのに、 「人生に目的なんて、ないよ」 と、言う人が、意外に多いのです。
本当にそうでしょうか。何か、大事なものを、忘れていないでしょうか。
1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、「なぜ苦しくとも、生きねばならぬのか」を考えてみましょう。
人は皆、幸福を願っているにもかかわらず、なぜ、果たせないのでしょうか。
前回のお釈迦様のお言葉を、思い出してみていただきたいと思います。
「それは苦しみの原因を正しく知らないからである」
と、お釈迦様は言われていました。苦しみの根元を誤認していたのでは、どんなに努力しても幸福にはなれません。では、仏教では苦悩の根元をどう教えているのでしょうか。800年前の親鸞聖人は、こう断言されています。
「苦しみの根元は疑情一つであると説く、本当の仏教を教える人には、めったに会うことはできないものである」
まず後半の2行からみてみましょう。車の輪が回るように、安心・満足というゴールのない円周を限りなく回って苦しんでいるさまを、仏教で「流転輪廻(るてんりんね)」といわれます。「人生の終わりなき苦しみ」のことです。
「越えなばと 思いし峰にきてみれば なお行く先は山路なりけり」と古歌に歌われるように、1つの坂を乗り越えて、やれやれと思う間もなく別の坂があらわれる。ようやくその坂を乗り越えて、ほっとしたのもつかの間、さらなる急坂がそびえている。そんな繰り返しではないでしょうか。
誰もがしかし、この苦しみから解放され、本当の幸福になりたいと願ってやまないはず。それなのになぜ、人生は苦しみの連続になるのでしょうか。親鸞聖人は 「疑情一つが原因である」と断定されています。「しくぞなき」の断言には迷いがありません。
ところが、そのように教える人はまずありませんから、 「真の知識にあうことは かたきが中になおかたし」 と最初に言われています。ここでいう「知識」とは、お釈迦様の教えを説く人のこと。「真の知識」とは「本当の仏教を教える先生」ということです。そんな仏教の師に会うのは、極めて難しい、と言われていますが、これは親鸞聖人ご自身の体験から出たものでもあるでしょう。
親鸞聖人は、4歳でお父様を、8歳でお母様と悲しい別れをなされ、「今度死ぬのは自分の番だ、死ねばどうなるのか」と真っ暗な心に驚かれ、わずか9歳で、当時、日本中の仏教学者が集まっていた比叡山に入られた方です。以来20年、魂の解決を求めて勉学と修行に打ち込まれましたが、そこでは真の知識に会えませんでした。
29歳で泣く泣く山をおりられ、京都の町をさまよっていらした時、かつての法友・聖覚法印(せいかくほういん)に導かれ、苦悩の根元を説き切られる真の知識・法然上人に巡り会われたのです。その体験から、「なんと真の知識とは、おられないものだなあ」と述懐されているのです。
では、今日の私たちはどうでしょうか。苦しみの原因を、お金がないから、こんな人と結婚したから、体が不自由だから、こんな子供がいるから、欲や怒りの心があるから、と教える人なら周囲にたくさんあります。そんな人には会いやすいでしょう。しかし「疑情一つ」と教える人はめったにいません。まさに会い難いと言われるとおりですが、これをお読みの皆さんは、不思議にも今から、その苦悩の根元の核心を知ることになります。
では、疑情とは何でしょうか。
この心を、「無明の闇」とも「後生暗い心」ともいわれます。「後生」とは死後のこと。「暗い」とはハッキリしないということです。例えば経済に暗いといえば、経済のことがよく分からないということでしょう。「後生暗い心」とは、「死んだらどうなるか、死後がハッキリしない心」をいわれるのです。 なぜ、この心が苦しみの根元なのでしょうか。
私たちは年々死に近づいています。これは何人も否定できません。1日たてば1日、間違いなく墓場へと近づいています。地球の時計を全部止めても、それは止められない。たとえ老後がなくとも、100パーセント間違いない、私たちの確実な未来が「死」です。
では、死んだらどうなるか。私たちはハッキリしているでしょうか。 「死後はない」と言う人でも、肉親が亡くなれば墓参りをし、慰霊祭に参加します。死者の霊が存在し、慰めを必要としているという心情がなければ、これらの行為は成り立ちません。死後を否定しながら、冥土の幸福を祈る。そうせずにいられない気持ちになるからでしょう。 それは、内心では死後の世界を認め、しかも死者はどうも苦しんでいるようだと直感しているからです。しかし、死後何があるのかはハッキリしません。これでは、安心して生きていけるはずがありません。
例えば、3日後に大事な試験があるとします。そんな時、今だけでも楽しくやろうじゃないかと言われても、できるでしょうか。試験が気になって、心から楽しめないでしょう。ちゃんと勉強しているから大丈夫といっても、試験は水もの、どうなるか分かりません。どうしても気になります。未来が暗いと現在が暗くなる。だから今、安心できないのです。 「死んだら死んだとき。今からつまらん心配するな」と言う人がありますが、本当に先のことを気にせずに生きてゆけるかどうか。正直に心に問うてみたらどうでしょう。 あるかないか分からぬ火事や老後のことでさえ、「なってみにゃ分からん。つまらんこと心配するな」とは誰も言いません。まして100パーセント確実な未来である後生がハッキリしないままで、どうして、心から安心できるでしょうか。
未来が暗いと現在が暗くなる。現在が暗いのは未来が暗いからです。死後の不安と、現在の不安は、切り離せないものですから、後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、できる道理がありません。
この後生暗い心こそ、苦悩の根元であることをつきとめ、生きている今、この「無明の闇」をぶち破り、「生きてよし、死んでよし」の大安心、大満足の幸せになることこそ、人生の目的であると示されたのが、仏教であり、親鸞聖人の教えです。
では、どうすれば無明の闇(疑情)は晴れるのでしょうか。親鸞聖人の答えは確信に満ちて、簡潔で、鮮やかです。
主著『教行信証』の冒頭に、親鸞聖人は宣言されています。
「苦しみ多き人生の海(難度海)を、明るく楽しく渡す大きな船がある。無碍の光明は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、大船に乗せてくださる智慧の太陽である」
人生の苦海を渡す大きな船とは何か。どうすれば無明の闇が破られ、大船に乗れるのか。大船に乗ったら、どこがどう変わるのか。どんな幸せの世界に出られるのか。私たちが求めてやまぬ、「人生の目的」と「その達成方法」を教えられているのが、じつに『教行信証』6巻です。
私たちは、決して苦しむために生まれてきたのでも、生きているのでもありません。ある小説に自殺しようとする少女を止める、こんな一節がありました。「なぜ止める?だって、おまえはまだ、死んでもいいって思えるほどの幸せを味わってないじゃないか」 。生きる目的は幸福です。そして仏教には、「生きてよし、死んでよし」の「絶対の幸福」が説かれています。しかもその幸せは、誰でもなれる、だから早く達成してくださいよ、と親鸞聖人は言われています。『教行信証』全巻には、自らその絶対の幸福になられた親鸞聖人の、躍動する喜びと感謝と爆発的なエネルギーがあふれています。『教行信証』に示されたその「なぜ生きる」の答えを、あなたもぜひ学んでいただきたいと思います。 (終)
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