生と死

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ペットロス~別離の悲しみをどう受け入れるか。ある20代女性の場合

ペットロス…愛犬をなくした20代女性

こんにちは。優紀です。

首都圏を中心に、仏教の講座を開催しています。講座には20~30代の方が多く参加され、社会で活躍されているたくさんの方とお話しさせてもらっています。

今日は、ある20代の女性Sさんとの会話を紹介いたします。
この記事を読まれている方の中に、Sさんと同じような経験をされた方は少ないかもしれませんが、どんな人の人生にも潜んでいる落とし穴ではないかと思います。

Sさんは20代の会社員。
比較的寡黙な方ですが、常に笑顔をたたえて、先輩からも後輩からも愛される人です。
週末の講座には決まって参加され、あまり発言はせず、会話も控えめですが、Sさんが参加されると、はじめての人も安心するような雰囲気を持った人でした。

そんなSさんが、あるときぱったりと来なくなったのです。
何か事故や病気だろうかと心配になり、それとなくSさんと仲の良かったMさんに聞いてみました。するとMさんは言いました。

ペットロス・・・って、先生分かりますか?」

ペットロス。言葉は聞いたことはあっても、実際に直面したことがなかったので、Mさんに教えてもらいました。

Sさんは愛犬を失い、その悲しみ、寂しさ、喪失感から、精神的にも肉体的にも日常生活に支障をきたすようになってしまったといいます。

しばらくして、Mさんを通してSさんから私のところへ悩み相談の依頼がありました。

体調は万全ではないそうですが、よかったら話を聞いてもらいたい、とのことでした。私は都合の会う日を書き出してMさんから連絡してもらい、週末の夕方にSさんと喫茶店で会うことになりました。

久しぶりに会ったSさんは、大きなマスクをしていました。
髪も整えられ、いつものような笑顔を見せてくれてはいましたが、どこか寂し気で、何か解消しきれない心を持っていることがよく分かりました。

ペットロスとは、ペットを亡くした悲しみや喪失感をいいます。
深く愛情を傾けてきたペットを失う悲しみ、寂しさなどの喪失感により、精神的、肉体的な疾患に発展するケースも少なくありません。

Sさんは子供のころからずっと一緒にいた犬を失い、ペットロスの症状が出てしまったそうです。
家族に愛され、20年近くを共にし、一緒に成長してきた愛犬を失ったSさんは、泣きに泣いたそうですが、泣くことでは喪失感が埋められませんでした。

その日から、何故か深い眠りにつくことが出来ず、疲労は蓄積し、かつてないほどの数の口内炎に苦しめられ、食事もままならなくなってしまいました。

医師には不安やストレスによる症状ではないかと言われ、ペットロスだと分かったそうです。

私に相談されたのは、この精神的・感情的な問題について、仏教の立場から話を聞きたいということでした。

ペットロスって、どうしてこんなにつらいの?

仏教では、私たちの人生の苦しみを四つに大別し、それに四つを加えて「四苦八苦」と教えられます。

その四苦八苦の中に「愛別離苦(あいべつりく)」というものがあります。

「愛するものと別離する苦しみ」のことです。

人生には色々の苦しみがありますが、愛するものとの離別や死別ほど、切ない苦しみはありません。

交通事故でご主人を失い、悲しみに暮れる奥さん。最愛の息子を過度の労働でなくされる親御さん。
どんなに嘆き悲しんでも、決して戻ってはこない。

底知れぬ悲嘆です。

どうして、愛するものと別れるのは、これほどまでに苦しいのでしょうか?

それは「愛している」からです。

愛情が深ければ深いほど、その愛情を傾けていたものを失うのはつらいのです。

仏教では「執着(しゅうちゃく)」と言われますが、愛する、大事にする、必要とすることを「執着する」といいます。

大学合格の記念に父から買ってもらったペンをなくしたら悲しいでしょう。
それは、そのペンを大事にしていた、執着していたからです。
恋人からもらった婚約指輪をどこかに落としたら泣きながら探すでしょう。
それも勿論、執着していたからです。

自分が執着しているものは、あるだけでうれしく、幸福を感じますが、何かのことで失われると、そのショックから離れ切れなくなります。

もう捨てようと思っていた短い鉛筆をなくしても、あまり気にしませんが、やっとの思いで買ったハンドバッグをなくしたら、しばらくそのショックから立ち直れないでしょう。
ましてや、20年間も一緒に暮らし、一緒に成長し、可愛がってきた愛犬をなくしたら、その衝撃は計り知れません。

Sさんがペットロスになるのも無理はありません。

では、仏教ではどんな回答が示されているのでしょうか?

愛児を失ったキサー・ゴータミー

仏教にこんな話があります。

かつてお釈迦様が舎衛城におられた時、近くの村にキサー・ゴータミーという美しい女性がいました。

結婚して間もなく、玉のような男の子に恵まれ、生きる喜び一杯の毎日を送っていました。

しかし、無常の嵐は歳若き子供にも容赦なく襲いかかる。
急な病で、突然死んでしまったのだ。

命とたのむ可愛い子が、ある日突如、帰らぬ人となったのである。

愛児の亡骸を抱きしめ、生かす法はないものか、と家ごとに尋ね回る姿は、まさに狂人さながら。

見る人、聞く人、同情の涙に誘われたが、死者をよみがえらせる法など、あろうはずがない。

見るに見かねて、「お釈迦様に尋ねるがよい」と、諭す人がいた。

お釈迦様の元に馳せ参じ、泣く泣く真情を訴える、憐れむべき母親の姿にお釈迦様は、世の最も大きな悲しみを見られたのでしょう。

しばらく黙視されて、優しくこう命ぜられました。

「無理もないこと。それほど愛しい子を取り戻したいのなら、まず、私の言うことを聞かねばならぬ。これから町へ行き、昔から一度も死人を出したことのない家から、芥子(けし)の種子を一つかみ、もらってきなさい。そうすれば、すぐにでも生き返らせてあげよう」

それを聞くなりゴータミーは夢中で町へと走っていた。

しかし、芥子の種子はどの家でも蓄えていたが、死人のない家などあろうはずがない。

「三年前に父が死んだ」

「母が昨年亡くなった」

「可愛い娘に死別したばかりだ」

いずこを訪ねても、死人のない家はなかった。

あの家に断られ、この家に失望しながらも、子ゆえに迷う母心は、なおも不死の家を求めて駆けずり回る。

しかし、夕闇が町々を包む頃ともなると、精も根も尽き果て悲嘆のドン底に突き落とされたゴータミーは、トボトボとまたお釈迦様の元へと帰らねばならなかった。

「ゴータミーよ。芥子の種子がもらえたか」

「お釈迦様、死人のない家はありませんでした」

ありのままに心中を話し、泣き崩れるキサー・ゴータミーの心に、求法の兆しを感知されたお釈迦様は、こう諭されています。

「そうだろう。死んだ者は決して、元の姿にかえるものではない。生まれた者は必ず死なねばならぬ。造られた物は必ず壊れる時がくる。それを諸行無常というのである。この世に、一つとして常住不変のものはないのだ」

仏教は、命の儚さ、そして私たちの幸せの儚さを赤裸々に教えています。
どんなものもやがては色あせ、失われるもの。
その世の実相を包み隠さず明らかに説かれ、その上で本当の幸せを教えられているのが仏教です。

ペットロスから立ち直るカギは、別離を「どう受け入れるか」

私の話はここで終わり、話の前後で、Sさんの寂しげな表情はあまり変わりませんでした。

そうであろうことは、はじめから分かっていました。

人生の大半を一緒に過ごした愛犬と別れた、という事実は、1時間や2時間、話をしただけで解決するようなものではありません。

それなりの時間が必要です。

この問題の大事なところは「どう受け入れるのか」というところです。

悲しいこと、思い出したくないことからは目を背けたいのが私たちですが、目を背けていては問題の本質は見えませんし、いつかまた同じ苦しみを経験しなければならなくなります。
「どんなものとも必ず別れねばならない」という事実をありのままに見て、その上で人生を真面目に考える必要があります。

その後のSさんは、以前と同じように講座に参加されるようになりました。
はじめは神妙な面持ちでしたが、回を重ねるにつれ笑顔も増え、言葉で言い表すのは難しいですが、この一連のことがある前のSさんよりも、何か芯のある、底力のある女性になったように思います。
大きく一歩進まれたのだな、と分かりました。

人生の苦しみにぶつかり、仏教を真面目に聞かれ、Sさんのように前進される方は多くあります。
もちろん、事実を事実としてありのままに説かれますから耳は痛いですが、事実ですから、受け入れざるをえません。

形あるものはいつの日にか色褪せ、失われていくもの。どんな安心、満足などの幸せもやがてはなくなる、そんな無常の世に生きている私たちが真に進むべき生きる指針を教えられたのが仏教ですから、皆さんも是非、聞いていただきたいと思います。

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この記事を書いた人

仏教講師・ライター:優 紀



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