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難しいのは、捨てること
カフェ〈スマイル・ウェルカム〉の成果は、お客さんにいい読書をしてもらうこと……。
その目的のために、行動しているか?
みんなの行動を、目的に集中させるには?
立山豊は、勉強会で得たアドバイスを手帳にメモして、読み返していた。
このところ、ひとつ悩んでいることがある。(コーヒーのドリップを、俺以外に任せるか?)
豊はメモを開いた。確か、『徒然草』の一節の意訳だったはずだ。
重要なこと以外は投げ捨てて、少しでも価値の高いものから順に取り組むべきだ。
どちらも捨てられないと執着していては、一つも成就しないであろう。
(マスターが丁寧に淹れたコーヒー、そのことにこだわっていたのは、俺だけかもしれない。俺だってついこの間まで素人だった。訓練して、できるようになったんだ……)
「拓哉」、意を決して、カウンターを片付けている林拓哉に声をかけた。
「お前、ハンドドリップしてみたいか?」
拓哉の動きが止まった。
「はい!僕、いつか豊さんからカウンター任されるようになりたいなと思っていたんです。自分1人のときでもカフェ〈スマイル・ウェルカム〉をまわせるようになったら、一人前かなって」
豊はショックを受けた。拓哉を単なるアルバイトだと認識していたことが、恥ずかしくなった。
かくして、ハンドドリップの特訓が始まった。
拓哉は乾いたスポンジのように豊の言うことを吸収し、ぐんぐん上達していった。
カフェ〈スマイル・ウェルカム〉は、「マスターが淹れるコーヒー」を廃棄した。
■ ■ ■
拓哉がコーヒーを淹れるようになって、仕事の流れが大きく変わった。
これまでは豊に業務が集中し、拓哉は暇を持て余すことすらあった。
しかし、豊を束縛していた業務が減ったことで、空いた時間が生まれた。
カフェ〈スマイル・ウェルカム〉の成果に向けて、何をすればよいのか。
具体策を考えるために2階のオフィスに籠もろうとして、ふと麻衣と拓哉の顔が思い浮かんだ。
1人で考えるより、3人で考えたほうが、いいアイデアが浮かぶかもしれない。さっそく、翌日の開店前に初めてのミーティングを開くことにした。
文殊の知恵
「忙しいのに、時間をもらってすまない。これまでは自分1人で頭を抱えていたけれど、2人の知恵を借りたくてね」
「大歓迎」「嬉しいです」、2人ともやる気にあふれている。
「ありがとう。まず、うちの目的が、これだ」
“お客さんにいい読書をしてもらうこと”
「この目的、どうしたら果たせると思う?」
「そもそも、うちが読書できるカフェだって、ご近所のみなさんはご存じかしら」
「えっ?」、麻衣の意外な一言に、豊が驚く。
「私、近所の奥さんから、おたくのご主人お洒落なバーを始めたのね、って言われたことがある。お店の外観からだと、コンセプトがわかりづらいんじゃないかな」
「じゃあ、黒板を外に置いて『大きな本棚にたくさん本をご用意しています。どうぞごゆっくり読書をお楽しみください』って書いたらどうでしょう」
拓哉のグッドアイデアに、豊がすかさず乗る。「いいね、さっそくやろう!」
「本好きの人って、富山にはけっこういるんじゃないかしら」と麻衣。
「本屋もたくさんあるしな」、豊もうなずく。
「ねえ、本屋さんにチラシ置いてもらったら? 別にうちの本じゃなくても、本屋さんで買った本を持ち込んで、のんびり読んでもいいんでしょ?」
「ああ。本オタクが集まってくれたら、本望だ」
「読んだ本について、お客さん同士が話し合うようになったりして……」
「でもそれじゃ、話し声がうるさくて読書の邪魔にならないか」
「それなら、エリアで分けたらいかがでしょう。2階を静かな読書スペースにして、1階をおしゃべりOKスペースにするとか……」
「おお、この物件が2階建てだってことが、生かされるなあ」
3人のミーティングは、どんどん盛り上がっていった。
「同じ本を読んだ同士で語るのって、本当楽しいですよね」、拓哉が言う。「豊さん、太宰治の読書会、やってくださいね」
「太宰なんて、もう時代じゃないだろ?」
「あら、あなた何でも読むじゃない。いまどきの流行作家の読書会もやりつつ、太宰の読書会も混ぜちゃえばいいのよ」
「えっ、そんなにたくさんやるのか。カレンダーをつくらなきゃな……。あ、ホームページも、変更しないといけないな」
拓哉が訊ねる。
「ホームページ、僕がやっちゃだめですか?」
「えっ、拓哉、ホームページつくれるの?」
「一応、専門学校を出ています。もちろんプロじゃないですが、いいものができるまで頑張りますから」
「でもなあ、そんなに何でもかんでも、申し訳ないよ……」
「やらせてくださいよ。僕がどうして豊さんについてきているか、知っていますか」
拓哉の言葉に、豊が首を傾げた。
「楽しいんです。豊さんみたいになりたいんです。ドリップだって、死ぬ気で練習したらできるようになった。だから、ホームページもできるようになりますよ。豊さんは、豊さんじゃなきゃできないことを、どんどんやってください!」
自分の時間をつくるだけではない。人に仕事を任せるということは、任せた相手が生かされ、輝いていくことでもある――拓哉の笑顔から豊は学んだ。
とかくのもよひなく
こうして、カフェ〈スマイル・ウェルカム〉は、「読書好きのためのカフェ」というコンセプトを前面に出していくことにした。
入口ドアの前には黒板が置かれ、拓哉が得意なイラストつきでメッセージを書いた。
富山市内の書店を何十店とめぐり、読書会カレンダーが入った店のチラシを置いてもらうようお願いして回った。案外、書店員さん本人が興味を示すことも多かった。
近辺の読書サークルや文学教室にチラシを配り歩き、俊介から紹介を受けて、テレビやラジオ、雑誌、新聞などにリリースを送った。
ふらりと入店した客と、本談義で盛り上がることもある。
それでも不安は、常に胸中にあった――マスターが淹れたコーヒーを出す、正統派の喫茶店じゃなくていいのだろうか。本当にこの方向性に集中していいのだろうか。
しかしそのたびに、勉強会で学んだ『徒然草』の言葉が支えになった。
目的が定まったら、「その達成のためには、ためらったり、足踏みしたりせず、断固、突き進んだほうがいい」と兼好は、力強く押し出している。
集中とは、勇気である。カフェ〈スマイル・ウェルカム〉は勇気を出して方向性を絞り込んだ。
■ ■ ■
少しずつ、変化の兆しが見えてきた。読書を目的に、訪れる客が増え始めたのだ。
マスコミの取材も、徐々に増えてきた。新聞記事やラジオ番組をきっかけに来店し、読書の喜びに夢中になっていく客も1人や2人ではなかった。
客同士も仲良くなり、読書をテーマにしたコミュニティができつつあった。
豊の読書会は大盛況だった。おかげで拓哉は、手がしびれるほどカウンターでコーヒーをドリップしなければならなくなった。
豊たちは、常に目的を意識していた。目的をハッキリさせていなかった頃が懐かしいくらいだ。
――お客さんにいい読書をしてもらうこと。
これを意識し続けていると、お客さんから反応も返ってくる。
「こんな面白い店があるなんて」
「ここで本を読んでいると、時間を忘れるわ」
「週1回のカフェ〈スマイル・ウェルカム〉が、いい気分転換になっているよ」
「マスター、おすすめの本、もっと教えてください」
豊は、お客さんのこういう言葉を着実に増やしていこうと思った。
(つづきはこちら)
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