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時間がない!
林拓哉が野菜シチューをもっていくと、1階のテーブル席で歓声が上がった。
「わあ、彩りがきれい!」
「ここのシチュー、美味しいのよね」
カフェ「スマイル・ウェルカム」は開業以来、ぽつぽつとリピーターが増えてきていた。
立山豊はありがたいと思いながら、カウンターでコーヒーを淹れている。
「拓哉、2階席のオーダー、上がったよ」
さて、と。豊がかすかなため息をついたとき、レジに置いてある電話が鳴った。
「はい、お電話ありがとうございます。カフェ『スマイル・ウェルカム』でございます。ああ、どうもこんにちは、立山です。ええ、その件ですよね、ぜひお話を聞きたいと思っておりましたが……。えっ、いまからですか? えーと、はい、じゃあお待ちしてます」
豊はあわただしく電話を切った。
「誰か来るんですか?」、拓哉が声をかける。
「ほらあの、前に拓哉が電話受けてくれたホームページ制作の人だよ」
「外注するんですか」
「値段とクオリティ次第だな。まあ、話を聞いてから判断するけど」
拓哉は何か言いたげな顔で、おずおずと切り出す。
「今日は夕方にミニコミ誌の取材も来ますよ」
「わかってる」
「そういえば、メニューブックに誤字がありました」
「そうか、直さなきゃな」
「それから、そのホームページですけど、年末のままになってます。もう正月も過ぎましたし……」
「あああああ、もう、何だってこんなに忙しいんだ」
時間がない。なのにどんどん用事が溜まる。やりたいことが何もできない。
豊のイライラは最高潮に達しつつあった。
ドアが開いて来客を告げるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」、豊が出て行くと、20代とみられる男性が立っていた。
新人の営業マンだろうか。しどろもどろで汗をかきながら話し始める。
「あの……、すみません、ただいま、お得な電話回線のご案内に回っております。数分で結構ですので、お時間を頂戴したいのですが……。社長さんはいらっしゃいますか」
豊の顔がみるみる紅潮していった。
「お時間、ありませんね。申し訳ないけど!」。けんもほろろに返すと、営業マンは一目散に退出していった。
あまりの対応に、拓哉が呆れ顔で豊を見る。
「……ちょっと俺、上で仕事してくるわ。ホームページ制作の人が来たら呼んでくれ」
豊は疲れたように2階のオフィスに消え、背中を丸めて椅子に座り込んだ。
(まずい、営業活動に行く時間が全然ない)
血の気が引く思いだった。
念願のカフェ開業に燃え、早朝から夜更けまで働いているつもりだった。
しかし実際には、雑事にばかり時間を取られているような気がする。
カフェ「スマイル・ウェルカム」が軌道に乗るまでの道筋を、何百もの手が邪魔しているかのようだ。
(何でこんなに時間がないんだ……)
豊はふと、この間の勉強会を思い出した。
バッグからノートを取り出し、ぱらぱらとめくる。ある1行が目に留まった。
かたまりの時間をひねり出し、真になすべきことに使う」
「ああ、まずは生きる目的をハッキリさせるんだったな……。でもそんな余裕ないわ。こんなくそ忙しい状況で、できるわけがないっての」
ぶつくさ悪態をつく豊の脳裏に、西田の台詞がよみがえった。
――忙しいと嘆く人の多くが、実はやめても問題のないことに時間を費やしています。
――本当に重要なことをじっくり考えるには、細切れの時間ではできません……。
「全部大事なんだ。その、生きる目的を吟味する時間がないんだよ……」
豊はふうっと息を吐き出した。今日も帰りは夜半過ぎになりそうだった。
仕事と家庭
豊が疲れ果てて自宅に帰ると、すでに日付が変わっていた。
そっと音を立てずに瑠華の寝室を覗いてから、ダイニングで妻に声をかける。
「腹減った……」
「こんな時間まで食べなかったの?」
「店閉めたあと、パソコンに向かっていると忘れちゃうんだ」
「そう。こんな夜中じゃ胃にもたれるから、おうどんにするわ」
麻衣が運んできたうどんには、大きな梅と溶き卵が入っていた。
「こりゃ美味そうだ……いただきます」。豊は無心になってうどんをかき込んだ。
「瑠華は元気か」
「いやあねえ、一緒に住んでいるのに、もう何日も娘の顔を見ていないなんて」
「いまだけだ。しばらく朝早くて夜遅いからなあ。休みもないしなあ」
麻衣は不安そうにため息をつく。
「あなたが大きい保険会社に勤めていたから安心して結婚したけど、まさかこんなことになるなんてねえ」
「おい、何だよ。まだ倒産もしていないし、借金苦にもなっていないぞ」
おどけてみせる夫に、麻衣は困ったような顔で返した。
「瑠華、元気ないのよ」
「えっ」
みるみるうちに麻衣の目に涙が溜まった。
「瑠華、元気ないの。いじめられているみたいなのよ。ダンス部をやめさせられたわ」
食べているうどんが、逆流しそうになった。
「何だって? いつだよ、いじめって何だよ!」
豊は妻を問い詰めながら、いつだかの夕方の光景が脳裏をよぎった。
たしか、瑠華はこう言っていなかったか――パパは会社をやめさせられたの?やめさせられたんじゃないならいいよね、と。
(何てことだ! あのときちゃんと話をしていれば……)
思い返せば、たまに21時頃に帰宅したときも、瑠華の寝室は真っ暗だった。
てっきり眠っていたのかと思っていたが、そうじゃなかったのか。
(瑠華!)
瑠華の寝室に駆け出さんばかりの豊を、麻衣が制した。
「いまは寝ているわ。寝させてやって。私も先週気づいたのよ。私がつくったダンス用の巾着、ハサミでズタズタに着られていた。細切れになって、スクールバッグに入っていたの。だから私、バッグのなかを探したのよ。そうしたら、これが」
麻衣が差し出した水色のメモ帳に、ピンクのペンで短い言葉が書かれていた。
怒りで豊の脳みそは沸騰寸前だった。
自分に似た性格の娘は、きっと部活でも情熱的なのだろう。
決してスマートに振る舞うタイプではない。
しかし、それをこんなふうに排除するとは。
豊は少女たちの冷たさにぞっとした。
「熱血の、何が悪いんだ」
「熱血だけじゃないのよ。地区予選の個人戦に何人か出られるんだけど、瑠華は個性的な踊りをするので、抜擢されるという噂があったの。でも、それでこれまでのエース的だった子が落選しちゃ困るってことになってね。まじめにルール通りやってきた一派にとっては、自由に踊る瑠華が評価されるのは許せないんでしょう」
「どうすればいいんだ、俺たちは。そのエースの子の親と話すか?」
「やめてよ! 絶対だめよ、そんなこと! 親の頭越しにねじ込んだって、よけい陰湿化するだけだわ」
豊はうなだれた。
「でも、私は絶対に、何があっても瑠華を支えるわ」。麻衣は静かな口調で続けた。
「この話、もっと早くにしたかったのよ。いま、あなたが忙しいのは理解しているつもり。でもね、朝早く鉄砲玉みたいに出て行ったきり、夜中にくたくたに疲れて帰ってきて……。お休みもないからなるべく寝かせてあげたいけど、もう少しでいいから、瑠華や私と話す時間もつくってほしい。家族にだって、時間は必要なのよ」
静まり返ったダイニングに沈黙が続いた。
時間がない、なさすぎる。豊は体がいくつあっても足りない気がした。
(つづきはこちら)
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