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晴美の変化
富山駅周辺は週末の賑わいだった。
街の奥の一角にはオープンスペースがあり、買い物途中の人々が思い思いに憩っていた。
赤城晴美も数あるベンチの一つに腰掛けていた。
少し奥まった、観葉植物に隠れたこのベンチは、晴美がよく時間を過ごす場所だ。
フードコートでテイクアウトしてきたホットココアを両手で包むと、外を歩いて冷えきった手がじんわり温かくなった。
ココアを飲むと、ほっとする。疲れたときやリラックスしたいときのお気に入りの方法であった。
先日、『歎異抄』読書会へ初めて参加してからというもの、晴美の気持ちは大きく変化しつつあった。
『歎異抄』を通して、自分の存在意義を見つめ直したいと思うようになっていた。
いま自分が学んでいることをきちんとノートにまとめようと、今日は文房具店巡りにやって来たのだった。
少し奮発してでも、これぞという1冊を見つけたい……。
何軒か回ってから、普段行かない老舗の文房具店で、とうとうイメージにぴったりのノートが見つかった。
濃紺の表紙に金色の装飾が施されている。
価格は千円を超えていたが、この重厚さが『歎異抄』にぴったりだ。
思い切って購入した。
ココアを飲み終わった晴美は、浮き立った気持ちで地下街を歩いていた。
自分も知らなかった新しい自分に出会えそうで、気分が高揚していた。
ふと、一段と大きな呼び込みの声が耳に入った。
いかにも頼りになりそうな、肝っ玉母さん風の女性が、はつらつとした笑顔で、オーガニックビスケットの試食を道行く人に勧めている。
「さあ、どうぞ、どうぞ! そこのお姉さん、試食はいかが? そちらのお兄さんも、一口味見してみてくださいな。愛情たっぷり、優しい味ですよ~。100%天然無農薬、赤ちゃんでも食べられる安心のビスケットです。ほらほら、遠慮しないで!」
その女性の屈託のない笑顔と朗らかな話し方に、道行く人が思わず足を止める。
いつのまにか、人だかりができていた。
晴美もつられて立ちどまった。
(あの女性はアルバイトなのかもしれないけど、まったく受け身じゃない。本当にこのビスケットが大好きで、みんなに食べてもらいたいって気持ちがあふれている……だからみんな自然に引き寄せられるんだわ)
(自分の意思で働いている感じがする。ああいう輝いている人に私もなりたいな)
温かいエネルギーをもらった気がして、晴美は2ダース入りを購入した。
(そうだ、明日は北陽銀行の研修があるから、きっと何人か休日出勤して準備しているはずだわ。これ、差し入れに行こう!)
会社のみんなが喜んでくれるだろうかとわくわくして、富山駅近くにある〈フォー・ユー〉のオフィスに向かった。
青天の霹靂
オフィスのドアは鍵が開いていたが、がらんとして人気がない。耳を澄ませるとパソコンのキーボードをタイプする音が、奥の社長室から聞こえてくる。社長の南原浩二は出社しているようだ。
(あら、南原社長しかいないんだ。2ダースのビスケット、社長1人には多すぎかな。まあ、ご家族で食べてくださいって言えばいいかしらね)
晴美は社長室のドアをノックした。
「失礼いたします」
しかし、南原からの返事はない。
晴美はいぶかしく思ったが、おそるおそるドアを開けてみた。
室内は薄暗い。
社長室の照明は点いておらず、ブラインド越しに入ってくる薄暗い光だけだった。
黒いパーカーを着た南原が、ゆっくりと晴美のほうを振り返った。
学生の頃から着ているかのような、英字のロゴマークが大きく入ったパーカーだ。
色もあせて、元々は黒だっただろうに、いまやほとんどグレーに近い。
休日出勤のときの南原は、いつも決まってこのパーカーだ。
南原はニコリともしない。陰鬱な表情のままだ。
晴美はただならぬ暗い雰囲気に、ドアを開けたときの笑顔のまま凍りついていた。
「おう」、南原の声は意外にもソフトだった。
「忘れ物か?」と言い、再びパソコンの画面に視線を戻した。
「いえ、明日の準備でみんな出社しているかと思って、差し入れを」
「中止になったんだよ、明日の研修。だから今日は誰も来ない」
「えっ、北陽さん、中止になったんですか。知らなかったです」
「昨日、晴美が帰った直後に、先方から電話があったんだ。オフレコだが、北陽銀行がサンシャイン銀行に吸収合併される。月曜日の朝刊に出るそうだ。北陽銀行の福利厚生と教育研修を任されていた北陽マネジメントは、存在ごとなくなるらしい」
晴美は事態を飲みこめず、棒立ちしたままだ。
「北陽本体も人員整理されて、残った人たちはサンシャイン銀行に行く。サンシャイン銀行で研修を受けることになるから、今年度うちで決まっていた北陽の研修はすべて中止になった」
「そんな……」
「いま、11月だろ。3月まで北陽の900人分の研修をうちでやることになっていたが、それが全部中止だ。1億円、飛ぶんだ。非常に厳しいことになる」
「今期は北陽さんからの受注が大半でしたよね」
「ああ、そうだよ。青天の霹靂だ。うちも連鎖倒産しかねない……。ったく、来年20周年だっていうのになあ。俺の嗅覚も弱ったもんだ」
晴美は、かける言葉が見つからない。
「みんな、昨日は青ざめた顔で帰っていったよ。今頃、どうやってこの泥船から逃げ出すか考えているだろうさ。晴美、お前も転職していいんだぞ」
自嘲気味に話す南原は、昨日までの自信あふれる様子とは打って変わって、怖じ気づいた少年のような顔をしていた。
腹の立つこともあるけれど、ずっと仕えてきた敬愛するボスだった。会社に対する愛着もある。晴美の内側から、熱い闘志のようなものがふつふつと沸き起こってきた。
「社長、どうしましょう!」
「どうしましょうって、お前、どうもできないだろう」
「私、一緒に頑張ります! フォー・ユーを倒産させません!このまま指をくわえているだけじゃ嫌です」
「いいよ、いいよ。晴美の気持ちは嬉しいけれど、営業でもないしな。会社都合で退職していいんだぞ」
「社長!」、まっすぐな怒りが突き上げてきて、晴美はつかつかとデスクに詰め寄った。
「な、何だよ?」
「社長はすぐ私をばかにして!何年やってんだ、とか、自分のアタマで考えろとか」
「あのときのことか。悪かったよ。でもそんな……」
「はい、いまそんな話をしたいんじゃありません! 会社が倒産しそうなのに、手伝わなくていいっていうのが間違っているんです!」
「何でそんなに怒るんだ。申し訳ないからそう言っているんじゃないか」
「それ、私が戦力外だって暗に言っていませんか。社長に指示待ちじゃダメだと叱られて、反省していろいろ考えたんです。『歎異抄』の勉強も始めたんです。変わろうと思っているんです。これからは、主体的に動けるような人物になりたいって」
普段の晴美ではとても社長に言えないようなことが、このショックで口からすらすら出てくる。
「気持ちはありがたいけれど、倒産の危機だぞ。そう思うならキャリアアップできる道を広く考えろよ。うちにこだわらなくていいんだ。晴美は優しいから、長年一緒だった俺から去りづらいんだろうけど、冷静になれよ」
「もうっ、違います!」、晴美はありったけの勇気を振り絞って大きな声を出した。
「変わろうと思うから、私はフォー・ユーに残るんです!」
南原が(いったい何を言い出したんだ)という疑問の表情を浮かべる。
「ひ、人は」、晴美は震える声で話し始めた。
「人は、人生において、自分さえよければいいんじゃなくて、そのときにやらなきゃならない仕事があると思うんです。うまくいくとか、いかないとかじゃなくて、目の前に来た難題に本気で自分を差し出さなきゃならないときが……」
呆然とする南原に、晴美は思いのたけを吐き出す。
「いま目の前に、会社が倒産しそうだっていう難題がある。ここで逃げないで本気で立ち向かったということが、本当に生きることにつながると思うんです。だから社長! 何でもかんでもやってみましょうよ。思いつくことを全部やってみましょうよ。10個やってだめだったら、100個やってみましょうよ!」
南原はゆらりと立ち上がった。
180センチの上背がある南原が、頼りないただの棒のようになって晴美を見る。
沈黙の数秒間があった。
「10個やってだめだったら、100個やってみる、か……。俺、そんなふうに思えなかったよ。20年やってきたフォー・ユーがなくなるショックで、自暴自棄になりかけていた」
南原の瞳に、光が戻り始めた。
「でも、違うな。最後の最後まで、南原浩二は本気じゃないとな。ぺっしゃんこにつぶれたっていいか。やりきってつぶれてやるか」
晴美は南原の言葉にうなずきながら、自分の肚の奥で静かな闘志が燃えたぎっていることを実感していた。
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