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荒川のゆううつ
富山の広告代理店〈アド・エージェンシー〉のフロアに、昼休みを告げるベルが鳴った。
営業4課に所属している荒川俊介は、顧客へのメールの送信ボタンを押すと、慌てたように立ち上がり、携帯電話と財布を手にランチの約束場所へ向かった。
隣のビルにあるいつもの定食屋は、今日もサラリーマンでごった返している。
「俊介、ここ、ここ!」
同じ営業4課で働くトップ営業マン、足立涼平のよく通る声が奥の席から聞こえた。
足立はランチメニューを片手に、ご機嫌な様子で片眉を上げてみせる。
どうやら、午前中のプレゼンは手ごたえ上々だったようだ。
2人は入社して15年になる。
足立は同期でも群を抜いて成績のいい営業マンで、毎月の目標数字を軽々と達成しているMVPの常連だ。
一昨年、アド・エージェンシーは、自社媒体としてフリーペーパー『マチ・ニュース』を創刊。広告営業チームとして新たに営業4課が編成され、部門を問わず人が集められた。
俊介は制作部から、足立は新聞広告を担当する営業2課から異動となった。
創刊時のドタバタをともに乗り越え、以来、気の置けない間柄となっている。
割烹着姿の店員が慌ただしく料理を運んできた。トンカツ定食と鍋焼きうどんを熱々のままテーブルに置く。腹ペコの2人は、しばらく無言でがっついた。
おもむろに、俊介が足立に話しかける。
「どうだった? 午前中」
「派遣会社のTに行ってきたよ。12月号の見開き2ページ、検討してくれるって。いろいろ話してたら、どうやら年間契約にも興味がありそうだったから、明日また、課長と見積もりを持っていくことになった」
足立のはつらつとした様子に、俊介は内心複雑だった。俊介の営業成績は、いまひとつ振るわない。同期の笑顔が、いまの自分にはまぶしすぎた。しかし同時に、仲のよい足立の活躍を嬉しく思う気持ちもある。
「すごいなあ。そんなふうに提案を膨ませられるなんて。僕なんて今月も目標未達なんだよね。午後の会議、ゆううつだよ。お前、よくトンカツとか食えるな」
「わはは、俊介はデリケートだなあ。それでお腹に優しい鍋焼きうどん、ってわけか。あ、鍋で思い出したけど、2月号は鍋特集だってよ」
俊介はうどんを喉につまらせそうになった。
タブレットとキャラメルラテ
昼食後、足立は用事があるからとビルの地下街に消え、俊介は重い足取りで会社に戻った。
このあと、『マチ・ニュース』の広告売上について営業4課の月次会議が開かれる。
俊介がトイレをすませてから会議室へ行くと、すでに足立が着席していた。
会議のメンバーは7人。
営業4課課長の加藤、トップ営業マンの足立、それから俊介。
残りの4人は後輩で、男性と女性が2人ずつだ。
今日の加藤課長は、一段と機嫌が悪そうだ。
また禁煙しているのだろう、さっきからミント味のタブレットをひっきりなしに噛んでいる。
「で、目標数字にあと200万足りません、と」
じろりと睨みを利かせ、タブレットをさらに5、6粒、一気に口に放り込む。
「見込み数字は全部出しきったよな。足立、もうないのかよ」
「僕はもう、ありませんよ。明日課長とプレゼンに行く派遣会社のT社だって見込みに入れたうえで、あと200万なんですから」
重苦しい会議だというのに、クリームののったキャラメルラテを涼しい顔でちゅうちゅうと飲んでいる。
(定食屋のあとの用事ってこれだったのか)
俊介は拍子抜けした。
足立の営業成績は、以前の営業2課時代から社内でもトップレベルであった。
重苦しい会議でも、MVP常連者ならではの余裕のオーラを放っている。
「しょうがねえなあ」。
加藤課長はイライラしながら、ホワイトボードをペンでコツコツと叩いている。
その音を聞くたびに、俊介はちくちくと胃痛を感じるのだった。
「……じゃあ、杉並!」
「はっ!」
急に自分の名前を呼ばれ、武士のような変な応答をしてしまった。
だが笑う者など誰もおらず、会議室にはピリピリとした緊張が立ちこめたままだ。
「杉並は、あと1週間で200万を埋める商談、どのくらいありそうだ?」
「いや、それが、あの……いろいろ当たってるんですけど、どうもなかなか……」
加藤課長は、しどろもどろになる俊介をじっと見た。
そういえば前に誰かが、「加藤課長ってトカゲっぽいよね」と言っていたことがあった。
たしかに、その乾いた瞳は獲物を見つけた爬虫類のようだ。
「お前、営業に来てそろそろ2年だよな。いいか杉並、制作と営業は違うんだ。営業は数字なんだよ! ほどほどの成績でのらりくらりしやがって」
長年制作部にいた俊介にとって、数字を追いかける営業という仕事へ切り替えるのは、そう簡単ではなかった。
以前の自分は、もっと楽しく成果を出せていたと思う。
社内メンバーだけでなく、広告プロダクション、ライター、デザイナーといった社外スタッフのクリエイター魂を高め、きめ細やかな采配で数々の評価を得てきた。
だが営業に来てからは、どうも成果を出せず、仕事に思い悩む日々だった。
シンと静まり返った会議室に、加藤課長がタブレットを噛む音だけが響いていた。
「まあ、いいや」
加藤はくるりと椅子を回転させて、俊介に背を向けた。
「他に見込み数字、いまから出せるやついるか」
ここぞとばかり、20代女性が手を挙げた。
「特集がらみで、新規開業のネイルサロン、何軒か当たってみてもいいですか」
30代女性もすかさず続く。
「わたしも、市内のホテルに再アタックしてみます」
負けじと20代男性、30代男性がアピールする。
「美容室の新規飛び込みしてきますっ」
「ボクも休眠リスト洗いなおして、一からプッシュしなおしてきますよ」
加藤課長は4人の顔を見渡し、「おう、頼むぞ」と目を細めた。
「やれるだけやってみてくれ。もう1回聞くけど、足立はどうだ?」
「うーん、奥の手がないこともないんで。このタイミングで使いたくなかったけど、行政を当たってみますかね」。そう言ってキャラメルラテのクリームをすくった。
次は自分の番だということは、俊介もわかっている。
しかし、さっきの叱責で頭の中が真っ白になっていた。
容赦なく全員の視線が注がれる。
「僕は……、あっ、そうだ! 美術館の近くに、カフェができたんです。そこに新規営業に行ってきます。善は急げで、きょ、今日にでも!」
あてずっぽうで、今朝通勤のとき、たまたま目に入ったカフェのことを言ってみた。
「……頼んだぞ」
加藤課長は片頬を上げてみせた。どうやら微笑んだつもりらしいが、萎縮しきっている俊介には恐怖しか感じられなかった。
朝のオフィス
翌朝の7時半。オフィスには秋の朝日が差し込んでいる。
10時の始業時間近くまでは誰もいない。静かで集中できるこの時間帯を、俊介は好んでいた。
制作部時代に懇意にしていたカメラマンが渡米すると聞き、これまでのお礼を込めて手紙を書いていた。
ふつふつと感謝がこみ上げ、文章にも熱が入る。カリカリと便箋にペンを走らせる音だけが響いていた。
「おはよう!」
突然、朝の静寂が破られた。
声の主は、足立涼平。集中していた俊介は、まったく足音に気づかなかった。
「いやあ、今朝は冷えるね。朝イチでT社にプレゼンだから準備しにきたよ。昨日どうだった? 美術館近くのカフェ」
一気にビジネスアワーに突入したような、活気あふれる話し方。俊介も顔を上げ、笑顔で返した。
「それがさ、アポなしで行ったら、オーナー不在だった。出直しだよ」
「そっか。ところでこんな朝っぱらから、何してるの」
「お世話になったカメラマンさんが、うちの仕事を辞めて渡米することになってさ……。お礼の手紙を書こうとしたら、止まんなくなっちゃって」
見ると、便箋が何枚にもわたっていた。
「優しいなあ、俊介は。そういえば、昔、俺がお客さんからのクレームで凹んでたときも、なぐさめのメールくれたよね。あれ、名文だったな」
そして足立は、意外なことを言った。
「実はあのメール、プリントアウトして、しばらく手帳に挟んでたんだよ」
俊介の胸が熱くなった。
「えっ、あのメール、持ち歩いてくれてたのか。トップ営業マンにほめられるなんて、素直に嬉しいよ。このところ数字が全然上がらなくて、ずっと落ち込んでいたから……。加藤課長にも怒られっぱなしだし」
足立はパソコンの電源を入れながら振り返って笑った。
「ああいう丁寧なところは、俊介の長所だよ。逆に俺なんて、トップ営業マンだなんて言われるけどさ。数字を積み上げるのが得意って、人としてどうなんだろうな。会社には評価されるけど……」
そう言って口をつぐんだ足立は、俊介が見たことのない表情をしていた。
富山の素敵なセンセイ
午前11時、加藤課長が俊介を会議室へ呼んだ。
「昨日のカフェはどうだった」。手帳に目を落としたまま尋ねる。
「オーナーがご不在で、出直すことになりました。スタッフの方では広告掲載の判断ができないと言われまして。今日にもアポイント取り直して行ってきます」
「ふうん」、加藤課長は手帳に何か印のようなものを書き込んで、パタンと閉じた。
閻魔大王が不適合者にバツ印をつけるような速さだった。
俊介の胸中を冷たい木枯らしが吹き抜ける。また怒鳴られるかと、思わず身構えた。
「ところでな、杉並。来年の夏、新しい記事広告を立ち上げることになった。タイトルは、『この人の講座を受けたい! 富山の素敵なセンセイ』。お前を担当にしようと思う」
意外な展開に、俊介は眼をぱちくりさせたまま固まっている。
「具体的な営業は春からだが、先行してヒアリングを始めてほしいんだよ。よさそうな先生のいる会社を探して、営業先のアタックリストをつくっておいてくれないか」
加藤課長が大きめの仕事を頼むのは珍しい。
あるいは、俊介に下準備的なものを任せ、稼げる人には年末の数字を追いかけさせようということか。
あれこれ勘ぐってしまったが、仕事の内容自体は面白そうだ。
人が好きな俊介にとっては、楽しく取り組めそうな企画でもある。
「承知しました。何社か当たって経過を報告します」
沈みがちだった俊介の気持ちは、この機会を得て少し上向いた。
俊介はいつになくはりきった足取りで会議室を出た。
(先生、か。専門学校とか、カルチャースクールとか、研修会社とかもいいかな……)
席に戻り、さっそくインターネットであれこれ検索してみる。すると、面白そうな研修会社がヒットした。
未知数の可能性に満ちた、御社の社員様お一人お一人の潜在能力を、
当社オリジナルカリキュラムで専門講師たちが最大限に引き出します!
おかげさまで20周年、企業研修なら〈フォーユー〉
(へえ、面白そうな会社だな)
俊介はマウスを動かす手をとめた。
社長紹介のページには、南原浩二という人物のプロフィールと写真が掲載されていた。
南原社長の屈託のない笑顔は、人の可能性を信じて本気でわくわくしている人物に見えた。
俊介はこの会社に何か惹かれるものを感じた。
(よし、当たってみよう)
俊介は、フォーユーの代表番号に電話をかけた。
(つづきはこちら)
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