第一話から読む
【龍一郎は、心に滲み出る血に包帯を巻いてくれた】早稲田美桜の世界(三月十一日)
アトリエからショパンの『夜想曲(ノクターン)二番』が流れている。夜に沁みこんでいくメロディー。これはCDなんかじゃない。龍一郎の演奏だ。
十五歳の誕生日、龍一郎はプレゼントの代わりに、ピアノを弾いてくれた。レパートリーのほとんどが勢いのある曲なのだが、あの日、龍一郎が選んだのは、この曲だった。何かの拍子に、吾輩の母上が好きだったとこぼしたのを覚えていてくれたのだろう。
胸の中に、記憶がスーッと蘇る。
五年前の誕生日、龍一郎は、心の襞の裏側まで癒すメロディーを優しく奏でてくれた。長い指が愛撫するような旋律。生み出される特別な空間と時間。心がやわらかく振動する。そこに、ほほえむ母上の姿が浮かび、胸が熱くなった。最後の一音の余韻を味わいきり、湧き上がった拍手は数人のはずなのに万雷に勝っていた。鳴りやまぬ中、龍一郎は、じっとピアノを前に座り続けていた。
今、アトリエのドアの前に立ち、弾き終わった沈黙の中、その時の拍手が耳の奥で響いている。あれからもう五年も経ったとは思えない。
切なさと優しさが混ざった感情を息として体の外へ送り出す。いつの間にか閉じられていた瞼を開き、ここは現実の世界だと自分に確認した。
ノックしようとした瞬間、再び演奏が始まった。また、ショパンの『夜想曲(ノクターン)二番』。
静かにドアを開ける。そこには瞼を閉じ、何かを想いながら演奏する龍一郎の姿があった。
後ろ手でドアをしめる。
鍵盤の上で指が止まった。
音が消えると、部屋は別世界になった。龍一郎の透き通った瞳と視線がピタリとあった。
「まだ起きていたのか、龍一郎」
吾輩の言葉に、龍一郎は隠し事を見られた子どものような笑顔で返した。龍一郎の輪郭が、何となくぼやけて感じられた。
「ミオ、課題はどうだ」
「まずまずだ」
「そうか」
龍一郎は軽く伸びをした。吾輩はつい、「だが……」と言ってしまった。
「だが?」
「うむ」
軽くうなずいた吾輩の顔は下を向いたままになった。
「どうかしたのか?」
うつむいたままの吾輩は龍一郎の名前を声に出す。そして、そっと顔を起こすと、澄み切った龍一郎の瞳が、「話してごらん。どれだけでも話を聞くよ」と優しく語りかけるように真っ直ぐに、それでいて軟らかく向けられていた。それだけで「この人に会えて本当に良かった」と心から思える。
「なあ龍一郎、一体どんな意味があるのだろうな」
「意味?」
「この命に一体どんな意味があるのだろう」
龍一郎は、静かに目を細め、口元に手をやった。
「龍一郎、『存在と無』の結論は〝人生は無益な受難〟と書かれてあった。他の哲学書も似たり寄ったりだ。実際、生きていてもどこにも意義を見出せぬ。〝尊厳な命〟なんて、きっと言葉だけだ。このサルトルの一節を上回る幸福論などきっと存在しない。結局、最後はどんな幸福も失われ、どんな大切な人も去っていく。母上や、じいじのように」
龍一郎は、じっとこちらを見つめている。
「なあ龍一郎、結局すべては無意味じゃないのか?」
吾輩は、下唇をかみしめ、世界滅亡の日に最後の指示を仰ぐ隊員のように龍一郎の前に立っていた。
「ミオ……」
龍一郎の口からこぼれおちた響きは、沈黙という空間にジワリ溶け込んだ。内側から溢れるような微笑が、心に滲み出る血に包帯を巻いてくれた。
「確かに無意味に思えることって、あるよな」
龍一郎がゆるやかに立ち上がってこちらへ近づいてくれた。
普段はそんなこともないのだが、ときに、えもいわれぬ孤独感にさいなまれることがある。そんな時、龍一郎は決して吾輩を放っておいたりしない。どんなに忙しくても時間をとって、傍で親身に話を聞いてくれる。答えはでなくても、そんな姿だけで、心は軽くなり、分かってもらえた安心感から再び力を取り戻すことが出来るのだ。
今日も龍一郎は、吾輩の言葉に丁寧にうなずき、必要な時には質問し、理解を確かめ、悩みを共有しようとしてくれた。下手なアドバイスで話を遮ることもなく、胸に溜まりこんだものを吐き出したような言葉を嫌な顔一つせず受け止めてくれた。心に温かみを感じはじめたとき、ふと、「なあ、龍一郎」と、我知らず出た言葉が中途半端に宙に浮いた。
「ん?」
「いや、なんでもない」
「なんだよ、言えよ」
笑いながら言う龍一郎の声を聞きながら、目を伏せて、心を整えようと息を吐く。
顔を上げ、真正面から龍一郎の目を見つめ、小指を突き出した。そして、決意表明をするかのようにキッパリと
「指きりだ」
と言った。
「指きり?」
「そう、指きり。義兄妹の契りだ」
龍一郎の瞳がほんのり明るくなった。
「〝 契り〟かよ。それも義兄弟の? ハハっ、お前らしいな」
そう言いながら小恥ずかしそうに小指がニョッキと突き出された。
しなやかにからめられる指と指。そこに龍一郎を感じた。
複数の絵の具を混ぜ合わせたような複雑な色合いが龍一郎の顔に浮かぶ。そしてスルリとほどかれた。
龍一郎は、背を向け少し伸びをし、夜空を見上げながら、さてと、とつぶやいてから、こちらを見ずに言った。
「なあ、ミオ、気分転換にバイクに乗らないか」
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