【悲報】ジョンヒョンさん自殺 理由は?
「なぜ生きる」を問う悲痛な遺書
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先月30日に放送された『中居正広の金スマ波瀾万丈スペシャル YOSHIKI初告白…父の自殺…X JAPANメンバーの洗脳…解散…そして死…』が、大変な反響を呼び、瞬間最高視聴率はなんと驚異の19.7%だったといいます。
「X」のリーダーYOSHIKI本人のインタビューと共に、知られざるYOSHIKIの半生を特集。彼が歩んできた壮絶な道のりに
「YOSHIKIの言葉が、あまりにも心の中にダイレクトに入り込んできて涙腺が崩壊した」
「それでも前に進み続ける貴方の強さを心から尊敬しています」
などのコメントがSNS上に殺到しました。
私も大変な衝撃を受け、深く考えさせられることが多かったので、あくまで個人的なコラムとして、ここにアップいたします。
幼い頃のYOSHIKIは体が弱く、小児ぜんそくも患っており、発作が起こるたびに入院生活を余儀なくされていたといいます。
そんな虚弱体質の彼に尋常ではない愛情を注いだのは父親でした。
毎日のようにプレゼントを送ってくれて、ピアノをはじめ、誕生日には毎年楽器を買ってくれた。
老舗(しにせ)の呉服店を営む父親は、家業を継ぐまではタップダンサーであり、ジャズピアノもたしなみ、何でもできるYOSHIKIの憧れの的だった。
ところが、その父親が34歳の若さで他界する。
当時、YOSHIKI、10歳。
YOSHIKIは、死因は心臓発作と聞かされていたのですが、実は自殺であったことを後に知ることになります。
自殺の原因はいまだに不明。
YOSHIKIは 小学生にして死についての本を読みあさり、毎日のように「人はなんで生きているのか」と考え、橋の上などから飛び降りたい衝動に駆られたといいます。
YOSHIKIは、「父親が亡くなるまで楽しいこともたくさんあったのですが、1%の辛さが残りの99%を黒く覆ってしまう」と語っていました。
そんなある日、いきつけのレコード店で目にとまったのがロック・バンド、キッスの「ラヴ・ガン」というアルバムでした。
流れてきたのは聞いたこともない、ごう音。
その激しいギターとドラムの音は、YOSHIKIの体を熱くしたといいます。
病室に閉じ込められていた幼少時代と父を失った疑問と悲しみと苦しみを解き放つパワーを感じたのです。
瞬く間にロックのとりことなったYOSHIKIは母親に頼みこみドラムセットを購入。
ドラムを叩いているときだけは全てを忘れられたといいます。
実は、亡くなった父親もドラマ―になりたかったのだそうです。
ドラムに熱中するYOSHIKIでしたが話の合う友達は学校にはなく、一人浮いてしまいます。
そんな中 唯一の話し相手が幼稚園からの幼なじみ 利三。
後に「X JAPAN」のボーカルになる、Toshl(トシ)だったのです。
Toshl (Author:Georges Seguin撮影)
YOSHIKIはギターにハマっていたToshlと意気投合。一緒にバンドを組みます。
こうして、YOSHIKIがリーダーを務めToshlがギターを担当した小学生バンド「DYNAMITE」が結成されたのです。
YOSHIKIは、中学時代、荒れた生活を送りますが、成績はトップクラス。県内一の進学校に進みます。
しかし、高校時代はなお荒れるようになり孤独を感じていました。
そんな中、同じ高校には小学校からのバンド仲間、Toshlがいたのです。
歌のうまかったToshlをボーカルに抜てきし、YOSHIKIは新しいバンドを結成します。
そのバンド名こそ「X(エックス)」だったのです。
「X」には、無限の可能性という意味が込められています。
しかし、高校卒業が近づくにつれ、将来のことも考えなくてはならなくなります。
「俺は何をして生きていくんだろう」と自問したYOSHIKIが悩めるとき、いつも弾いていたのがピアノでした。
ピアノが上達し、父親に褒められるのが嬉しかったあの頃を思い出し、当時の夢だったピアニストになることを決意。
音大に進むことにします。
この日以降YOSHIKIは受験勉強に打ち込み、暴れまわっていた不良とは別人のようになり学校の成績はみるみる上がって、高校推薦で音大に合格します。
ところが、高校最後の冬休み、ふいに訪ねてきたのは、Toshlでした。
当時、Toshlは、ベスト・ボーカル賞、YOSHIKIは、ベストドラマー賞を獲得しており、二人は、自分たちの可能性を信じ、日本制覇、世界制覇を目指し、バンドに専念することを決意。合格していた音大を蹴りました。
中途半端ではなく、この道でうまくいかなかったら死んでやるという決意でした。
その気持ちは今でも変わらないといいます。
野宿をしながらのワゴンでの全国ツアーを続け、満を持してアルバムを出すことを決意する。
しかし、アルバムの費用は1000万もかかった。
ホテル代すらままならないのに、彼らにそんなお金があるはずもなかった。
それでも諦めきれないと、YOSHIKIは母親に1000万貸して欲しいと頼みます。
ところが、「うちにそんなお金ないわよ」とすげない返事。
デビューのめどすら立っていないばかりか、世の中では全くの無名の状態であり、そんな大金を貸してくれるわけもありませんでした。
しかし母親は、YOSHIKIの可能性を信じ、翌日1000万円を振り込んだという。
「もうあとには引けない」「売れて返すしかない」とバンドのメンバーは一丸となった。
大勝負だった。
その結果は……
発売するやいなや、インディーズチャートで堂々の1位。
YOSHIKIを信じてくれた母のおかげでした。
しかし「音楽よりも馬鹿げた格好で売っているバンド X」と世間の評判はさんざんだった。
そんな中、「X」に目をつけた人物がいました。
ソニーレコードの津田直士氏、後に 「X」のプロデューサーになる人物でした。
メンバーの人生も背負っているYOSHIKIから異常なまでの熱を感じたといいます。
デビューアルバムは、その年だけで60万枚のセールスを記録。
当時 トップレベルのロックバンドですら10万枚の売り上げで大ヒットだった中、異例の売上でした。
そして、「X」は世界進出を掲げて、日本での活動休止を発表。
国内ラストライブとなる東京ドーム公演は12万枚のチケットが即完売しました。
立ちはだかったのは、やはり言葉の壁でした。
ボーカルのToshlが完璧な英語で歌えず、1年以上もレコーディングを繰り返す日々が続きました。
精神的にまいってしまったToshlは 舞台で出会った新人女優と結婚。
しかし、この女性は、ある自己啓発セミナーのメンバーであり、巻き起こったのが「X JAPAN」を解散へと導く、Toshlの洗脳騒動だったのです。
Toshlの脱退により、「X JAPAN」は解散を余儀なくされ、けじめをつけるため、1日だけ最後のコンサートをすることになりました。
そして コンサートの終盤、『forever love』を歌っているToshlに向かってYOSHIKIが歩いていきます。
舞台でガッシリと抱き合う二人。
コンサートのクライマックスを飾る名場面として知られています。
本当は、YOSHIKIは、ぶん殴ってやろうと思って、Toshlに近づいていったのだそうです。。
しかし、目の前に現れたのは幼なじみのToshlで、やっぱり抱きしめてしまった語っていました。
「泣いてましたね。Toshlさんもね」というコメンテイターの言葉にYOSHIKIは、
「仲間でもあり、メンバーでもあり友達ですからね。どんなToshlでも、やっぱり、幼なじみのToshlなんだなっていうことをその瞬間に思いました」
と答えています。
解散後 ギターのHIDE(ヒデ)はソロ活動を開始すると、次々と大ヒットを飛ばし、ソロアーティストとして大きな成功を収めていました。
しかし実はHIDEとYOSHIKIは「新しいボーカル見つけたらさ、またXを再結成させて、今度こそ全米デビューを果たそう」と約束していたのです。
あくまで「X JAPAN」のHIDEであり、「元・X JAPANのHIDE」と言われると激怒していたそうです。
2000年になったら「X JAPAN」の再結成をしようと、2人は 夢半ばとなった世界進出を諦めてはいなかったのです。
そんな矢先、YOSHIKIのもとに信じられない連絡が届いたのはラストライブから5カ月がたった1998年5月2日。
HIDEが亡くなったという電話でした。
自殺、事故死、様々な憶測が飛びましたが、このHIDEの死もYOSHIKIの父親と同じく、ハッキリした答えは出ませんでした。
5月6日に行われた告別式。
献花に訪れたファンは5万人。戦後最大の数といわれます。
隅田川に沿って並んだその列は2キロまでのびていました。
遺されたメンバーが告別式で歌った歌も『Forever Love』でした。
その後、YOSHIKIは、HIDEの為に曲を書き、「X JAPAN」のドアを閉めたのです。
(Author Cygnusx523 撮影)
そして 解散から10年がすぎたある日のこと。
まさかの人物から連絡が入りました。
二度と会うことがないと思っていたToshlからでした。
会うのは 解散した直後のHIDEの告別式以来。
実はこのとき、Toshlは、お金目当てに「X JAPAN」の再結成を団体から指令されていたといわれています。
そんな中、再会したYOSHIKIが、Toshlに聴かせたのは、HIDEが亡くなったときに作りずっと封印していた歌『WITHOUT YOU』だったのです。
これを歌えるのはToshlしかいないと思い、ずっと封印していた作品でした。
「歩き疲れた夜にたたずむ~」で始まる名曲。
この曲により、Toshlは久しぶりに人間的な感情を取り戻し、涙したといいます。
これを機に10年の歳月を経て、「X JAPAN」は奇跡の再結成を果たし、翌年には再結成コンサートを行いました。
このライブでは特殊映像によって、実際にHIDEがステージにいるかのような演出がなされています。
そして 2010年に行った横浜公演では脱退したメンバーTAIJI(タイジ)をゲストに招き18年ぶりに共演を果たしました。
昔と変わらぬ演奏で会場を大いに盛り上げたTAIJIでしたが、翌年 45歳の若さで急逝。
報道によれば彼は自殺したといわれています。
旅立ってしまった2人のメンバー。
それでも YOSHIKIは立ち止まることはありませんでした。
2012年には、YOSHIKIは アメリカゴールデングローブ賞 授賞式での、公式テーマソングを作曲。
さらに X JAPANとしてアメリカとイギリスのロックの殿堂、「マディソン・スクエア・ガーデン」と「ウェンブリー・アリーナ」を制覇。
さらに昨年は クラシックの殿堂「カーネギー・ホール」で単独ピアノコンサートを開催し、音楽の三大殿堂を制覇します。
2016年にイギリスで製作された『We Are X』(ウィーアーエックス)は、
・South by Southwestのタイトルデザインで優秀賞を受賞。
・放送映画批評家協会賞 ドキュメンタリー映画賞で「ベスト・
ミュージック・ドキュメンタリー」にノミネート。
・第89回アカデミー賞アカデミー賞最優秀オリジナルソング賞に、
エンディング・テーマがノミネート。
と、高い評価を受けています。
その冒頭は、こう始まります。
そして、この映画の終盤には、こういう言葉がYOSHIKIの口から絞り出すようにこぼれ出ます。
そんなYOSHIKIが紡いだ『forever love』の歌詞が心を打ちます。
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