「なぜ生きる」の答えはわずか漢字2字で答えられる~幸せと本当の幸せの違い(1)
人生の目的(なぜ生きる・生きる意味)の答えはわずか漢字2字で答えられます。目先の目標にとどまらない、自分が本当の幸せになれるヒント。
いきづらい世の中、さまざまなことで孤独を感じたり、自分が働く目的や、自分が生きる目的を考えずにはいられなくなるものです。
そして通りいっぺんな回答では、きっとあなたは満足しないでしょう。
しかし現実は、人生の意味に答えを求めいろいろ調べても、ほとんどが気休めか、ごまかしか、一時しのぎのものばかりではないでしょうか。
私が生きてる意味に悩んだときはそうでした。
みんないいことは言ってくれる。それなりのヒントはもらえます。そのことについては感謝しかありません。
でも「自分が本当に知りたいのは、もっと深い、奥にある問題なんです」と、心の中で叫んでいました。
そこでこのページでは、一個人の所見ではなく、古今東西の偉人たちが出した回答をもとに、できるだけ分かりやすいことばでお話ししていきたいと思います。
結局はそれが、あなたの悩みを晴らす最短距離なのです。
まず、いきなりですが、生きてる意味の答えからお話しします。
歴史的な知識人の答えは、実はまったく一緒だったのです。
まずはシンプルなこの答えを聞いて、心を整理してみませんか?
ソクラテス、プラトンとともに「西洋」最大の哲学者の一人といわれ「万学の祖」とも称されるアリストテレスは、『弁術論』や『ニコマコス倫理学』などに繰り返しこのように書き残しています。
「幸福こそは、われわれのあらゆる行いの目的」
「個別的に見ても、社会的に見ても、すべての人の目的は幸福」
「人間は考える葦(あし)である」の言葉で有名なパスカル。
数学、物理学の世界などの分野でも活躍している。台風のニュースで耳にする「ヘクトパスカル」の語源もこのパスカルによる。
そのパスカルは、こう記している。
すべての人間は幸福になることを求めている。このことには例外がない。(中略)これは、あらゆる人間の、自ら首をくくろうとする人々にいたるまでの、あらゆる行為の動機である。
『定本パンセ』パスカル 松浪信三郎(訳注)講談社文庫
「無意識」を初めて扱ったフロイトの精神分析は、現代思想に大きな影響を及ぼしている。
そのフロイトは、こう語っています。
「人間は人生に何を求めているだろうか、人生において何を実現しようとしているだろうか。
この問いはすぐに答えを示すことができる。
人間が手に入れようとしているのは自分の幸福である。
人間は幸福でありたい、幸福なままでいたいと願っているのである」『幻想への未来・文化への不満』フロイト 中山元 (翻訳)光文社古典新訳文庫
『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』などの代表作を残し、文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えたトルストイ。
彼もこう述べています。
「人がまず最初に考える人生唯一の目的は、自分という一個人の幸福である」
『人生論』トルストイ 米川和夫(翻訳)角川文庫
フランス革命にも大きな影響を与えた、カント。
彼は、こう書いています。
「間違いないひとつの意図がある。それは幸福を求める意図である」
『人倫の形而上学の基礎づけ』カント 野田又夫(翻訳)中央公論新社
「西洋哲学の歴史はプラトンの一連の注釈集である」ともいわれ、絶大な影響力を誇るプラトンは、変わらない幸せこそ、万人共通の生きる目的であると、その著『饗宴』に論じています。
「無知の知」(知らないことを知っていると思い込んでいる人々よりは、知らないことを知らないと自覚している自分の方が賢く、知恵の上で少しばかり優っている)で有名なソクラテス。、哲学者の祖の一人にあげられる彼に、こんな話があります。
『饗宴』という哲学書に、この問題が論じられディオティマ(以下:ディオ)という女性とソクラテス(以下:ソクラ)が、次のような問答をします。
ディオ「美しい者を愛する人は、何を欲しているのですか」
ソクラ「美しい人が、自分のものになることです」
ディオ「美しい者を手に入れるのは、何のためですか」
ソクラ「幸福になるためです」
ディオ「幸福は万人に共通の願いでしょうか」
ソクラ「そうだ」
さらにディオティマは、人間はただ幸せを願っているのではなく、自分を幸福にしてくれるものを、いつまでも所有していたいのだと主張します。すべての人は、幸福が永久に続くことを求めているのです。
お金が欲しいのも、健康でありたいのも、恋人を求めるのも、旅行に行くのも、すべては「幸せになるため」です。誰が何をする時も、突き詰めると、求めるものは「幸せ」だとお分かりになると思います。
あまりにも一致した回答に驚かれたかもしれません。
まずはこのシンプルな方程式を覚えておいてくださいね。
では、「生きてる意味」といわれる「幸せ」はどのようにしたら見つけられるのかについてお話しいたしましょう。
生きてる意味は「幸せ」といえますが、実はここから大きな問題があります。
まずはこれを、次にはあれを、と幸せを求めて生きているのが私たちですが、その時その時、求めている幸せは「生きてる意味」とはいえず、趣味・生き甲斐といわれるのです。
ですから、趣味・生き甲斐ならほとんどの人が持っていますが、生きる意味が分かっている人は極めてマレです。
カリフォルニア大学で長年哲学の教授をしていた倫理哲学者、フィリッパ・フットは、過去、現在を問わず、生きてる意味(本当の幸せ)を明らかに説明できた人を知らないと、『道徳的相対主義』に書いています。
この問題をよりしっかりと知っていただき、さらに答えを求めるため、人生をかけて生きる意味を探究したトルストイ(1828年~1910年)を通して、生きてる意味について考えてみましょう。
トルストイは、貴族の生まれで豊かな生活を送り、34歳で18歳の女性ソフィアと結婚。は9男3女が生まれた。幸せな日々の中、で『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』世界文学史上に輝く作品を残し「世界の教師」とまでいわれました。
しかし『アンナ・カレーニナ』執筆後、彼は禁書にまでなった問題の書『懴悔(さんげ)』を発表します。
そこには、まるでトルストイ自身の血で書かれたような人生に悩む生々しい告白がなされていました。
「ひとは、なんのために生きているのか」という生きる意味に懊悩し、「いまわの際の人が救いを求めるように」答えを渇望した苦悩がつづられているのです。
彼は、解答を知識の中に求めました。知識は大きく分けると2つ。1つは科学、もう1つは哲学。
けれども、いずれにも答えを見出すことはできまなかったのです。
科学は生きる手段であり、生きてる意味には答えない。
哲学は人生の目的を論じているが、問題提起の形を変えるだけ。堂々巡りで答えに行きつかない。
悲嘆に暮れるトルストイは。人々の生きざまを観察し、生きる目的の答えを模索しました。
そして、四通りの道があると彼はいいました。
第1の道は、人生の意味なんて考えもしない人たちです。
「生きてる意味だって? そんなこと考えて何になる」という生き方です。
しかし「なぜ生きる?」という魂の奥底からわき起こる問いにフタをしたまま生きてはいけません。
「すでに知ってしまったことを、知らぬ昔には返せない」し、無知の人たちから何事も学びえなかったことを、トルストイ自身が語っています。
トルストイは生きてる意味を考えない生き方をどうしても選ぶことはできませんでした。
第2の道は人生に疑問を持ちつつも、真実を直視せず、享楽にふけっている人々、仕事や遊び、酒、麻雀などでごまかして考えないようにしている生き方です。
トルストイ自身は、そのような生き方にはとても共感できませんでした。
「大地主になって、大金持ちになったとして、それに何の意味があるだろう?」
「文豪としてどんなに有名になり、多くの著作を残したとして、そのことが何になるのだろうか?」
と記し、現実逃避では何の解決にもならず、これらの幸せはほんの一時的で、死によってすべて崩れ去ると論破しています。
実際、トルストイは何度も自殺願望にかられました。
しかし、この絶望的最終手段をトルストイは最後まで選びませんでした。
彼は自殺からの誘惑に負けぬよう、ひも類を隠し、狩猟をやめ鉄砲を遠ざけたのです。
生きたくもない、さればといって死にたくもない。ただ惰性で、だくだくと死ぬまで生きている人たちです。
「この生き方は、私にとって実にうとましかった。しかも私は、こうした境地にとどまったのであった」
と、トルストイは吐き捨てるように書いています。
理性ではどうあがいても、生きる意味は見いだせませんでした。やがて彼は、信仰の道に入ってゆきます。
しかし、彼が求めたキリスト教は「気でも違わない間は、絶対排斥せざるを得ないような代物」であり、「私は理性にもとづく知識の道に、生の否定以外の何物をも見出し得ず、また信仰の中からは、理性の否定以外の何物をも見出し得ないことを知った」と書き残しています。
深刻な矛盾に苦しむトルストイは、82歳で世俗を一切断ち切って家出。4日目、田舎の駅で肺炎で死亡しました。今はその駅を「トルストイ駅」と名付けられています。
そんなトルストイが、唯一『懴悔』の中で、「これこそ、論じあう余地のない真実だ」「これは決して単なる作り話ではない」と述べている東洋の寓話があります。
それは、『仏説譬喩経(ぶっせつ ひゆきょう)』という仏典に説かれている話です。
当時、仏教に関する資料がロシアには乏しかったことを嘆息し作家・倉田百三は、こう言っています。
実際、仏教には「生きてる意味はある」と力強く説かれています。
次に、その1つを紹介しましょう。
仏教は、今から約2600年前、インドで活躍されたお釈迦様が説いた教えです。
フェイスブックの創業者、マーク・ザッカーバーグ氏や、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏、オバマ前大統領らが絶賛する世界的ベストセラー『サピエンス全史』にはこう書かれてあります。
ユヴァル氏が語るように、まさに仏教には、私たちが本当の幸せになれる道が教えられているのです。
さて、あなたは「天上天下 唯我独尊(てんじょうてんが ゆいがどくそん)」という言葉を目にされたことはありますでしょうか?
もし目にされたことがあれば、どんな意味で使われていたでしょうか。
おそらく「傲慢」「上から目線」といった意味合いの使われ方をしていたことと思います。
多くは、「オレだけが偉いとうぬぼれている、独善的な考え」というイメージの言葉ですから、他人を見下げるうぬぼれ屋を指して「あいつは唯我独尊だ」などと言うのでしょう。
しかし、もともとはそのような意味はまったくないのです。
実は、この言葉は、お釈迦様が仰ったものです。
常に世界の偉人のトップに挙げられるお釈迦さまほどの方が”俺だけがエライ”と威張られるでしょうか。
「実るほど 頭の下がる 稲穂かな」という言葉があります。
実った稲穂ほど、その重みで頭が下がっています。
まだ実っていない稲穂は、ふんぞり返ったようにして頭が下がりません。
また、「下がるほど 人の見上ぐる 藤の花」ともいわれ、みんなが「素晴らしいな」と見上げるのは、サーっと下がっている藤の花です。
稲穂や藤の花に例えられるように、徳のある立派な方ほど、むやみにうぬぼれ、威張ったりはしないもの。
ではこの「天上天下 唯我独尊」というお言葉の真意はどこにあるのでしょう。
「天上天下」とは、「大宇宙広しといえども」ということです。
「唯我独尊」の「我」とは、お釈迦さまだけのことではなく、「我々、人間」ということ。
「独尊」とは、「たった一つの尊い目的」ということです。
ですから、「天上天下 唯我独尊」とは、「自分一人が尊い」という意味ではありません。
「人は皆、誰もが、かけがえのない尊き人生の目的を持っている。一人一人に独尊(たった一つの尊い目的)がある」ということです。
つまり、「人生の目的はあるのか、ないのか?」という問いに、お釈迦様は、厳然と「ある」と答えられているのです。
お釈迦様は、「人生の目的」を求め、「人生の目的」を達成し、「人生の目的」を私たちに伝えていかれた方です。
では、この「人間に生まれてきた尊い目的」とは何でしょう。
人生の目的は、お金、健康、財、地位、名声などでない。それとはまったく別の「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜を獲ることなのです。
生きてる意味がハッキリすると、周りの環境はまったく変わらなくても、心は大変わりします。そのことについて次にお話ししましょう。
遣り甲斐のある苦労は苦労のうちに入りません。簡単な仕事でも無意味に思えれば、ストレスと虚しさが増大していくだけでしょう。
しかし生きる目的が明確になれば、心が大変わりします。
ニーチェは『道徳の系譜』で、生きてる意味がハッキリすれば「人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする」と書いています。
しっかりとした正しい目的があれば、つらい仕事や勉強、闘病生活も、「この大目的を果たすめ」と元気、勇気が出てくるでしょう、
人生の目的達成の喜びをお釈迦様はこういわれています。
「人身受け難し、今すでに受く」(じんしんうけがたし いますでにうく)
これは「よくぞ人間に生まれたものぞ」「人間に生まれてのはこのためだったのか」「人間に生まれてよかった!」という輝く告白です。
人生という世界をレストランにたとえてみましょう。
通常、レストランに入る目的は、空腹を満たし、食事を味わうためです。
その願いが満たされれば、レストランをいつ出ても後悔はありません。
逆に、その目的を果たしていなければ、つまりせっかくレストランに入って前払いでお金を払ったのに、食事が出される前にに「閉店です」と追い出されたらどうでしょう。決して満足して店を出ることはできません。
人生レストランに生まれてきた私たちも、目的を果たしたならそこから出ていくときも「人生に悔いなし」となります。
生きる目的を達成したら、「生きてよし、死んでまたよし」という真の自由人になれるのです。
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