【屋上の柵のムコウとコチラ】早稲田美桜の世界(三月十三日)
どこに行ったのだろう?
朝一番に病院へと足を運んだのだが、龍一郎の個室が空っぽなのだ。不気味な空虚感が部屋中に漂っている。得体のしれない空洞に立たされた違和感に、胃のあたりがキュウとなる。通りかかった看護師に尋ねると「お手洗いかしら」と首を軽くかしげた。不吉な何かが胸の中を通り抜ける。無意識に足はエレベーターの方角へ向いていた。
コンクリートの屋上に飛び出す。潮の香りをまとった風が次々と吹きつけてくる。グルリと見回した後、死角の部分へ足を進める。はたして、柵の向こう側に座る男の後姿が目に入った。見慣れたシルエット。ゆっくり近づき、足を止める。男は、書類のようなもので紙飛行機を作っていた。二人の間に、潮風が吹き抜ける。
「龍一郎」
大きくもなく小さくもない声で、呼びかける。
龍一郎は無言のまま、ひゅうと滑らすように紙飛行機を空に投じた。風に乗り、遠くへ遠くへ飛んでいく。
「ミオ」
視線を紙飛行機に向けたまま、龍一郎がつぶやく。
「小さいころから」
龍一郎は口元に手をやり、独言のように話し始めた。
「小さいころから、芯になるようなものが欲しいと思ってた。何か他人に誇れるものがあれば自信が持てるんじゃないかって、単純に考えてな。それで、以前ばあちゃんに絵がうまいって褒めてもらったのを思い出して、美術部に入ったんだ」
龍一郎はしばらく言葉を切って、口元を手で何度か撫でた。
「初めから、なかなかウケがよくて、過分な評価ももらえるようになった。それが嬉しくて没頭して、プロにまでなった」
また龍一郎は、口元に手をやる。しばしの沈黙。髪が風になびく。
「でもな……。評価されたのは、全部、ウソの部分だった。そもそも俺自身が嘘っぱちなんだ。だから絵も虚構だ。俺は相も変わらず評価されるべきものを持ち合わせていない。みな虚構なんだ」
「龍一郎……」
龍一郎はしばらく無言のまま、空を見ていた。もちろん紙飛行機はもうどこにも見当たらない。
吾輩は柵の影をいびつに映した龍一郎の背中をじっと見た。
「手足症候群って知ってるか? センスの欠けらもない名前だよな」
吾輩は背中に向かってうなずいた。龍一郎は右の掌を開いた。
「最初はチクチクする程度だったんだが、いよいよ動かなくなってきた。抗がん剤の副作用らしい。普通は数週間後に出るものなんだが、俺の場合やたら早かったな。絵を描き続けたのが仇だったようだ」
一呼吸おいて龍一郎は、
「もう、筆も持てなくなる」
と言い切った。
ウミネコたちの鳴き声が聞こえ、風が髪をなびかせる。龍一郎の言葉はこの世界の一部からハサミで切り取られ、なじまないもののように感じられた。
龍一郎は、振り向きもせず、ただ開かれた掌を見つめている。
「家を飛び出して東ヨーロッパの田舎を回ってた時」
うまく言葉にならないような間があってから龍一郎は続けた。
「あっちはとにかくめちゃくちゃだった。塩や砂糖さえ手に入らない家がザラだったし、薬もなくってね。略奪が当たり前で、いろんなことが間違ってた」
軽く視線がこちらに向けられ、そして静かに戻される。
「帰国したら、今度は平和な世界がなんだか……、なんだかひどくチャチに思えた。どうでもいいことが大問題になってる日常に吐き気がした。そして、頭の中に同じフレーズが回り始めたんだ。『全部ウソっぱち。結局死ぬのになぜ生きるんだ』そういうフレーズ」
龍一郎の瞼が静かに伏せられる。
「それからどんな絵を描こうとしても黒くなってね。まともなのは一つもなかった。親父もおふくろも、いい加減に道楽はやめろって散々で。
それでもとにかく描き続けた。何とか色が出せるようになったが、濃い赤と青だけで、それは怒りと哀しみの色だった」
龍一郎の視線がスウッとこちらに向けられた。静寂な湖畔を思わせる眼差し。驚くほど透き通った瞳。
「その頃、龍男のじっさまから、キャンバスを黒く塗って描き始める画家のことを聞いたんだ。その画家はこんなことを言っていた」
心の中で何かを熟成させるような沈黙の後、一言一言かみ締められた言葉が両の耳へと届く。
「人生は深い闇に満ちていて、永遠なるものはどこにもない。すべては移ろい消えていく。
俺たちは、そんな暗い人生のキャンバスに色を塗ってゆくように生きている」
龍一郎は、またしばらく間をとって、続けた。
「黒いキャンバスにどんな明るい色を重ねても、黒がかすかに浮きあがる。
だからさらに色を重ねようとする。
生きるとは、そんな終わりのない作業に過ぎないのかも知れない」
二人は言葉を消化するに必要なだけの時間をとった。
龍一郎は一度全身を通過させてから言葉を発するような話し方で続けた。
「言ってみればこれが遺言だな、じっさまの。この後、チョモランマで遭難して行方不明になったままだからな……。
それで俺もキャンバスを黒く塗りつぶしてから描くようになった。真っ黒から始めれば、あとは塗れば塗るほど、段々黒くなくなっていくだろ。そう思うとなんだか肩の力が抜けてな、絶望の黒に希望の色合いを少しずつのせていくことが出来るようになっていったんだ」
吾輩は小さくうなずいた。
「〝企業秘密〟、漏らしちまったな」
龍一郎は少しだけ笑った。
同じくらいの笑みで返す。
「けど……」
龍一郎はまた外に顔を向けた。頬が軽い痙攣をおこしたようにピクピクと動く。
「人生は、やっぱり黒い絵だな。真っ黒から始まって真っ黒に終わる。技を尽くした彩りも最後はすべて黒く塗りつぶされる」
しばらく間がおかれ、灰色の言葉が吐き出された。
「なら、少しだけ早く自分で塗りつぶしてもいいんじゃないか。龍男じっさまの最後も、結局そうだったんじゃないか」
吾輩は目を細め、心の中で龍一郎の名前をつぶやいた。そして、「あの地図」と声にした。
つばきを飲み込んでから続ける。
「あの地図の答えがもうすぐ出る」
龍一郎が軽く体をひねり、肩越しにこちらへ視線を向けた。
「しあわせの地図、か」
龍一郎は、また顔を戻し、うつむき加減になった。
「なあ、ミオ、本当の幸せなんて現実にあるのか?」
「ある。じいじは見つけた」
龍一郎は、顔を上げ、平和そのものの空へと視線を向けた。
「ミオ、あの地図に、二つの門があったろ。そのうちの一つはきっと〝 死〟だ。死を乗り越えない〝本当の幸せ〟なんてちゃんちゃらおかしい」
「そう。吾輩も、そう思う」
「だろうな」
龍一郎は妙に納得しながら何度もうなずいた。
「黒く塗りつぶされない、そんな自由な、何ものにも邪魔されない、そんな幸せってあるんだろうか」
龍一郎の視線が、宙の一点に注がれた。吾輩はゆっくりうなずいてから言った。
「ニーチェだな」
「ニーチェ?」
「死にむかって自由であり、死に際しても自由〟この言葉が『ツァラトゥストラ』に出てくる」
「死に向かって自由。死に際しても自由」
龍一郎がかみ締めるようにつぶやいてから深くうなずいた。そして「そっちの世界には、まだ希望があるのか?」と訊いた。
「もちろんだ」
龍一郎は吾輩の顔を見つめた。いや、吾輩の目を見ているのだ。風が二人の髪を揺らす。柵が檻に見える。龍一郎は、他の動作を全く忘れてしまったかのように吾輩の目を見続けている。その澄んだ瞳は、いつもと違う光を放っているように感じられた。
龍一郎がフッと息を漏らす。
やがて龍一郎は足下に視線を移し、不自然に身体を揺らしながら立ち上がった。似合わない青のパジャマが風にはためく。パンパンと汚れを払ってこちらを向く。真剣なまなざしが吾輩の目の奥を捕えた。吾輩は、龍一郎への全ての想いを込めて見つめ返す。
吾輩が軽くまげた小指を柵の間から突き出し、「指きりしようか?」と言うと、龍一郎は、顔を奇妙にほころばせた。
龍一郎の腕がかすかに震えながら上がり、ちょっと違和感のある曲がり方をした小指が吾輩の小指に少しずつ近づく。そして、不器用にからめられ軽く左右に振られた。
「お前を信じるよ、ミオ」
か細い声でそう言った後、柵の向こうに龍一郎の腕がひっこめられた。動かしにくそうに伸ばした手が、震えながら柵の上にかかる。乗り越えようとするが、ぎこちなくて危なっかしい。やっと柵に足がかかり、何とかこちら側に飛び降りたが、着地がうまくいかず、よろける身体を受け止めた。そのまま龍一郎を抱きしめる。
肩が濡れた。
背中に回した手に力をこめる。
その時、背後に殺気が走った。振り向けば、赤鬼、いや、龍一郎の母上が……。
(続きを読む)
第一話から読む
人生の目的が5ステップで分かる
特典つきメールマガジンの登録は
こちらから