【母と僕と妹と】田中進一の世界(三月十四日)
「ふう」
妹の病室の前でため息をつかないことがない。
だけど、今日の僕はいつも以上に深く息を吐き出した。最後の教授が帰ってくるのがあさってだから今日は何の収穫もないのだ。
ポリポリと頭を掻いてから、力なく、ノックする。
返事がない。
《寝てるのかな》
そっとドアを開け中を覗き込むと、ノートパソコンの横で両腕を枕に妹が机にうつぶせていた。静かに寝息を立てている。
僕はほっとした。会話せずに済むという安堵の心が広がったのだ。
ほぼ同時に、目を覚ます前に、見舞いに来たしるしだけ残して帰ろうという思いが僕を急がせた。メモとペンを探し始めた時、妹のひじの下にしかれているノートが目に入った。そこには、ホームページのアドレスとパスワードらしき英数字が書かれてあり、その下には乱れた妹の筆跡で「夢を汚された」と書かれてあった。僕は突如、心臓を鋭角な何かで突かれた思いになった。
動揺しながらも、咄嗟にメモ帳を取り出し、ダメだと思いつつ小刻みに震える手でアドレスとパスワードを写し始めた。最後の二文字というところで、妹が小さく声をもらす。
ビクリと妹に目を向けると、身体を揺らしながらスローモーションのように顔がこちらへと向かっていた。僕は残りの二文字を大きな乱れた字で書き殴り、あわてて手帳を隠す。妹は、ねぼけまなこをこすり、ゆっくり瞼を開いた。
「お兄ちゃん、来てたのですか」
くぐもった声でけだるそうに言う。
「あ、まあ、さっき来たばかりだけどな。それよりうたたねしてると風邪引くぞ」
妹は黙ったまま、そっとノートを隠すと、まだ焦点の定まらない目で僕を見た。
「で、その後どうですか? なにか手がかりは見つかりましたか?」
「ん? まあ、まだ始まったばかりだからな」
妹は、いつものように、はあ、と軽蔑と空しさが混ざったようなため息をつき「お兄ちゃん、その調子では、とても間に合いそうにありませんね」と言った。
「いや、何とかするさ、必ず」
「必ず、ですか。その根拠は何なのでしょうか?」
「根拠って、それを今探してるんじゃないか」
「何言っているんですか、根拠というのは、〝 必ず何とかする〟と言った根拠のことです」
「そ、それは……」
「ないのですね」
「いや、もうちょっと待ってくれよ。まだ始まったばかりだろ」
「お兄ちゃん、分かってますか? 一カ月なんてあっという間です。もし一カ月経って解らなかったら」
妹はズイッっと引き出しをあけて、中から新聞で包んだ何かを取り出した。粗雑に広げると、ガターナイフが現れ、蛍光灯の灯りがチカッと反射した。妹は、それを深光りさせ、ゆっくり舌で舐め始めた。目が奇妙に笑っている。
「お兄ちゃんの見ている前で死にます」
不気味に告げると舌からどろりとした妙に毒々しい赤黒い色の血が流れ出た。それは、アゴ全体へと拡がっていく。不気味さに全身鳥肌が立ち、恐怖に震え、目が大きく見開かれた瞬間、異世界へと舞い降りた——-
僕はガバリと身体を起こした。
目の前には見慣れた机がある。時計の音が妙に大きく響いて聞こえる。
夢だったのだ。今が現実世界。知らぬ間にうたた寝していたのだ。ひどい汗をかいていることに気づく。
まだ半分夢の中にいるような心地だったけれど、だんだんと意識がハッキリしてきた。そうだ、今の夢は半分は実際にあったことで、最後の方が夢だけであったことなのだ。
事実を確認するため、メモ帳を取り出す。そこには速記したアドレスとパスワードが書かれてあった。最後の二文字が不自然な大きさになっている。
これは昼間にあったことなのだ。そのことが夢で再現されたのだ。ガターナイフから先が夢の中の出来事。
現実と夢が混在していて、今も何だか、本当に現実世界なのか、まだ夢の途中なのか自信がなくなってくる。そんな謎めいた感覚の世界にたたずんでいると、淳子さんがパートから帰ってきた。
ネギをエコバッグからはみ出させた淳子さんが姿を見せる。
「今日も春奈ちゃんのところに行ってくれたんでしょ。具合はどうだった?」
淳子さんと一緒に見舞いに行った数少ない機会では、僕と二人の時とは違って妹はほとんどしゃべらず、鬱的に焦点の合わないうつろな視線を宙に揺らめかせ、じいっとしていたから、そのイメージで話をした。
「春奈ちゃんのことはいまだによく分からなくって。こんな時、父さんさえいてくれたらねえ」
淳子さんは、よく言うセリフをまた口にした。
僕はいつものように、わけもなくイライラし始め、言葉を返さなかった。
淳子さんはふいに何かを思い出した時の顔になって
「そうそう、裏の倉庫を整理してたら、進一くんと、春奈ちゃんのね、作文が出てきたのよ。小学生の頃の」
と言いながら部屋へと足を向けた。淳子さんは、ようやく裏の倉庫に入れるようになったようだ。倉庫といってもちょっとした大きさで、最後の一週間を父さんが過ごした場所だ。淳子さんは、哀しすぎたのだろう、ずっと封印するかのように、そこに入ろうとはしなかった。
淳子さんはスグに戻ってくると「これこれ」と目を細め、少しだけ茶色くなりかけた原稿用紙を僕に差し出した。
僕のは、『走れメロス』の読書感想文だった。ほとんどが物語のあらすじを書いたもので、最後のしめくくりが「メロスは一度とちゅうであきらめかけたけど、あきらめずにがんばりました。ぼくもあきらめず最後まで走りたいと思います」となっていた。あまりにも当たり前すぎてつまらない。というか、最後まで走りたいという結論は我ながら意味が分からない。
春奈の作文は、何と僕についてのものだった。そこには、つたないながらも、かわいらしい妹の字が躍っていた。
タイトルは『おにいちゃん』だった。
《おにいちゃん》
わたしには、おにいちゃんがいます。
おにいちゃんは、ネコみたいにやさしいから、すきです。
でも、おこるとライオンみたいにこわい。
だけど、おかあさんが、おにいちゃんに 「なかなおりに、あたまをなでてから、あくしゅしなさい」っていったら、おにいちゃんは、あたまをなでてくれて、なかなおりのあくしゅをしてくれます。
そしたら、おにいちゃんはネコみたいにやさしいおにいちゃんにもどるの。
だから、おにいちゃんが大すき。
僕は何度かなぞるように読み直してみた。妹が以前は普通の言葉を使っていたことを思いだす。
「これ、もらってもいいかな」
自分でも気づかないうちに、僕は尋ねていた。
「もちろん」
有難うと言おうと思ったけれど、それは口の中で消えてしまった。
「あ、そうだ。ねえ進一くん。NからZって何のことか分かる? 五文字で全部大文字らしいんだけど」
「何それ?」
「んー、多分、裏の書庫にある父さんのパソコンのパスワードだと思うの。整理してたらそのメモ書きがひょっこり出てきて」
《NからZ? 五文字? さっぱり分からん》
僕は「知らない」と気のない返事をして 自室に戻った。しばらくぼんやりした後、春奈の作文を机に置いてから、じっと掌を見つめる。
救急車の中で握った妹の手の感触が蘇る。
弱々しく、紫色になった妹の手は、救いを求めているように思えてならなかった。
《〝 死にたい〟は〝 生きたい〟の裏返しで、〝 助けて〟というメッセージじゃないのか。きっとそうに違いない。たぶん僕は、ずっとそのサインを見落とし続けてきたんだ。いや、無視していたのかもしれない》
もう一度、妹の手を握ったあの時のことを思い返す。
「〝 仲直りの握手〟か」
そうつぶやくと、なぜだか急にメモ帳に書いたアドレスとパスワードが気になりだした。
それにしても、あの妹がこんな単純なミスを犯すだろうか? 僕が来る大体の時間は知っていたはずだ。もし大事なパスワードなら見える状態のままうたたねをするだろうか。いや、春奈はそんなヘマはしない。
なら、ひょっとして、寝たふりをして僕に何かを見せようとしていたのだろうか? それとも見られても構わないどうでもいいことが書かれてあるだけかもしれない。
見ようか、見まいか、何度も心が綱引きみたいに引っ張り合う。やがて〝一度だけ〟との好奇心が僕の中で勝利をおさめかけてきた。
決定的な決断は下せないまま、パソコンを立ち上げ、インターネットに接続する。一文字一文字、アドレスを打ち込み、エンターキーを押した。するとシンプルな、パスワードを打ち込むためだけの画面が出てきた。
躊躇しつつも、ほとんど無心に手帳を見ながら、パスワードを打ち込んだ。一呼吸だけおいて、「入室」をクリックする。
一つのホームページが開かれた。
ゴクリとツバを飲み込む。
タイムリミットまで、あと二十七日
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