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第二話【妹の部屋】田中進一の世界(三月三日)
トラ猫を腹に、僕は芝生でねっころがっていた。呼吸のたびに、緩やかに上下する猫。見るともなしに見ている枯れ木のような桜の小枝に、ぬるぬる進む蝸牛がいた。たわいもない風景だ。なのに、〝何か〟が僕を刺激した。その〝何か〟は妙な具合に心の奥にひっかかって引っ張り出せない。記憶の押入れを整理していると、思わぬところからパラリと紙が落ちたように、父さんの言葉が降りてきた。
《蝸牛は刃の上でも這うことが出来るんだ、傷つくこともなく》
どんな脈絡で出たのかも思い出せないし、何を言わんとした言葉だったのかも忘れた。なのになぜか忘れられない言葉だ。
瞼を閉じると、ゆるやかな風が頬を撫でた。深く息を吸うと、お腹の上で丸くなっている猫が、その存在感を与えながらゆんやり波打つ。そいつが軽く爪を立て、大あくびしたのを感じ、僕も大きく口を開けて頭から抜けるような変な声を出した。風に吹かれて口に飛び込んできた芝生を吐き出す。青臭い苦味が鼻の奥に向かって突き上がった。
ゆっくり目を開くと、桜の木の向こうで、夕雲が泳いでいた。桜を植えた遊覧船に乗り、自分の方が動いているようにも感じられる。
頭の横を軽く掻いてから「そろそろ帰ろうか」とあくびの共演者に声をかける。体を傾けるとトラ猫は僕の腹の上で一度踏ん張ってからストンと飛び降りた。彼は眠気を飛ばすようにブルブルと体を振り、鼻を舐め始めた。
帰り道、たこ焼きの屋台が目に入る。無言の誘惑に僕の足は素直だった。平和の象徴のような、まるっこい姿に青海苔がのり、鰹節が揺れるさまを眺めるひと時は、至福だ。
「はい、お待ちどう」
人なつっこい笑顔のおやじさんの太い掌に代金を落とす。軽くお辞儀をして家への坂を下り始める。いつもより大きく見える夕陽が真正面に沈みつつある。mp3プレーヤーに手をやり、ビートルズの名盤『アビーロード』を聴く。
玄関を開けると、妹の靴が他人行儀な顔つきで揃えられていた。帰ったこと、つまりはたこ焼きがあることをさとられぬよう慎重にドアを閉め、忍び足で自分の部屋へ向かう。軽く辺りを見回してから、抜き足、差し足、歩みを進めると、異臭が鼻を刺激した。
《匂うな。酒、か?》
廊下の角を曲がると、妹の部屋から何やら茶色い液体がドロリと流れ出ている。
《春奈め、未成年のクセに》
心でひとりごち、ドアをちょいと睨み、耳を寄せた。
カタカタカタ……
かすかに聞こえる小刻みな反復音。さすがにたこ焼き欲しさに仕掛けた罠(トラップ)ではなかろうと思いながらも、死角に秘密の品を忍ばせノックした。返事はない。再び耳を寄せる。
カタカタカタ……
相変わらず続く変な音。
さらに強くドアを叩き「おい、春奈」と声をかけるが、返事はない。ノブに手をやると、あっさり回った。妹とはいえ、年頃の女性の部屋に入ることは、はばかられる。けれど何だか嫌な予感がするから、一応、中の様子は見ておこう。
「春奈、入るぞ」
液体を避けつつドアを開ける。
瞬間、強い異臭に脳が揺らぎ、僕は魔女に手招かれるように中へと吸い寄せられた。
カタカタカタ……
「うわあ!」
目線を上げた僕は発作的に叫び、後ずさった。靴下の裏が冷たく感じられたと同時に派手にシリモチをつく。
平机に倒れた角瓶。そこから茶色い液が零れ、周りにはパラパラ散らばった白い錠剤。そして、正面には、正面には……、全身を痙攣させ、握ったグラスで机をカタカタいわせている妹!
口がパクパクするばかりの僕の背中に気持ち悪い汗がぬらりと大量につたい流れる。
春奈の頭が小刻みに震え、ゆっくりゆっくり上がっていく。操り人形のような動きでアゴがカクンと上がり、半開きの目が僕へ向けられた。
突然、妹は握っていたグラスを机に叩きつけ、何やら訳の分からない言葉を発したと思ったら、フッと瞼を閉じ、激しく額から机に倒れ落ち、泡を吹き出した。
僕の全身が絶叫する。
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