幸せとは

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小説フライザイン【龍一郎のアトリエ】早稲田美桜の世界(三月十一日)

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【龍一郎のアトリエ】早稲田美桜の世界(三月十一日)

「ちょっと右腕の力を抜いて」
 柔らかな龍一郎の声。呼応して、ピンクのワンピースを着たルイスハズキの手が微かに下がる。

 ルイスハズキは、母親がアメリカ人のハーフ。本名は、川上葉月だが、モデルでは母親姓のルイスを使っている。父親の虎之介殿は、龍一郎のパトロンであり、彼の才能を最初に見出した人物だ。ルイスハズキが龍一郎のモデルをつとめるのはこれが三回目。二作目は龍一郎得意の〝 歌う女性〟を描いた作品で、大賞を取った。もともと世界的に名の知れたフランス画家の専属モデルだったが、契約を破棄して龍一郎のモデルになり、ちょっとした話題になった。

 ショパンの『幻想協奏曲』が終わったが、すぐにリピートされる。絵のイメージに合った音楽をかけるのが龍一郎の習慣だ。メロディーから絵のリズムが生まれ、色合いも紡ぎ出されるという。
 描かれた女性からは人生の悲哀を歌うしゃがれた声が、背景の色合いからは魂を揺さぶる旋律が聞こえてくる。どうしてルイスハズキのような薄っぺらい女をモデルにこんな凄い絵を描けるのか極めて謎だ。

 しばらく瞳を閉じ、口元を掌で撫でていた龍一郎は「少し休憩しようか」と言って筆を置いた。〝優美なサムライ〟の異名を持つ龍一郎は、しなやかな立ち振る舞いでソファへ足を進める。長い髪が緩やかに揺れた。

「リュウ、コーヒー入れるわね。とっておきのを用意してきたから」
 ルイスハズキがパリコレウォークもどきの動きでキッチンへ向かうのを見ながら、龍一郎は軽く微笑みを浮かべた。凛々しい顔立ちも、笑う時は無邪
気さがこぼれる。
 パソコンの打ち込みを続けている吾輩を見ると、龍一郎は右の眉を少し上げて言った。

「ミオ、すごい早いな」
「うむ、そなたから依頼された書類作成のついでに、タイピングの訓練をしておるのだ。今日は平均180WPMだから、そろそろ190WPMの大台にのるかもしれぬ」
「WPMって?」
「word per minutes( ワード・パー・ミニッツ)。一分間に打つ単語数だ。バーバラ・ブラックバーンという女性が持つ212wpmの世界記録を目標に特訓中なのだがまだまだだ。なにせ彼女がキーを叩くときは風を切るような音が聞こえたそうだから」
 今はマシンガンをぶっぱなすように、キーボードを打っており、風を切るシャープさにはまだ遠い。
「ミオならギネスの一つや二つ、きっと取れるね」

龍一郎は優しい表情を浮かべながら、言葉を続けた。

「卒論は何について書くつもりかい?」
「じいじの残した地図を元に幸福論を」
「ほお。あれ、か」
「リュウ、ミオちゃん、コーヒー入ったわよ」

 芳醇な香りだけでも価値あるそれをトレイに載せてルイスハズキがやって来た。そのしぐさはいちいちミュージカルか何かのようだ。

「何? 地図って」
「ミオのおじいさんは鉄二先生といって、有名な哲学者だったのさ。遺言のようにミオに託した地図があって……。ミオ、今、持ってるか?」
「写しならいつも持っている」
 カバンから取り出した地図を三人で覗き込む。頭が三角形を描いた。龍一郎のシトラスの香りが心地よい。ルイスハズキのバラの香りは邪魔だ。

「へー、これがお祖父さまが遺された地図なの」
 ルイスハズキは、長い人指し指を劇のワンシーンのように妙にしならせて言った。

「厳密に言うと、鉄二先生の地図をミオが描き写したものだね」
「そうだ」
「二つの門の先に幸せの花があるのね。きっとまだ子どもだったミオちゃんに興味が沸くようしてくださったんだわ」

 ルイスハズキは独りで納得しつつ言葉を継いだ。

「それでミオちゃんは、お祖父さまからどこまで教えていただいたの?」
「少しも。ただ、ある程度はじいじが残した本や論文で予想がつく」
「それにしてもミオちゃんってホント変わってるね。〝 吾輩〟とか、〝 そなた〟とか、ドアの向こうで聞いたらきっと声変わりしてない男の子と思うわよ。まあ今は男の子でもそんな言い方しないけど」 

《そなたの知ったことではない。そなたこそ水色の車が苦手だなどと、相当変わってるではないか。そもそも変わってない人間などない。もしいたら、今度は「今時、そんな普通の人がいるなんて驚き」と言い出すだろう》

「ひょっとして、その言い方にも哲学的な意味があるのかしら」
 ルイスハズキは小首をかしげて微笑んだ。口元に皮肉めいた皺が浮かぶ。場をとりなすように龍一郎が言葉を挟んだ。
「ついに、先生の遺言の謎解きを本格的に始めるんだね」

 吾輩は黙ってうなずく。

「ふーん。三つ目の山は、山というより山脈ね。途中にある、これは滝かしら、道をふさいで水が流れているみたい。それを越えて、屋上にある鍵を手にするのね。それで、二つの門を開けて森から脱出、ってわけか」

 ルイスハズキはちょっと間をおいて、人差し指を伸ばした。

この『フライザイン』って聞かない言葉ね。幸せの花の名前? それとも鍵の下のマスに入る文字? ちょうど六字だし、きっとどちらかね」
「おそらく」
「ミオ、この三つの山は、世界の三大幸福論を表しているのかい?」
「いや、三大幸福論は三つともバラバラで特別に関連性があるわけではなく、三人三様、師弟関係もない。つまり、彼らはすべて別々の意見だから連
続している三つの山を表してはいないと思う」
「なるほどね」
「三つの山は、一人の人物が論じた三段階の幸福を表しているはずだ」
「幸福の三段階。なかなか興味深いね」
三大幸福論はおそらく下にある三つの矢印の部分だと思う
「ふうん。ミオ、矢印は三つとも、途中までしか届いてないね。三大幸福論じゃ幸せの花には辿りつけないってことなのか?」
「おそらく」
「じゃあ、世界の三大幸福論より先に行くってことか」
「そうしなければ、本当の幸せは見つからない」

 ルイスハズキは目をわざとらしく丸くし、オーバーアクションで両の手の平を上に向けてから話に割り込んできた。

「でもね、ミオちゃん、そもそも幸せって、そんなに難しく考えなくても、もっと身近なものじゃない? 家族とか、愛情とか」
「特に問題ないなら、ささやかな幸せでよいだろう。だが、問題を抱えている場合はそうはいかない。例えば、深刻な病気であれば早く治療せねば幸せになれないし、多額の借金を持っていれば返済を急がねばならない。同じように人生には」
「私は、健康だし、お金も問題ないから大丈夫よ」
「今言ったのは例えだ、当然ながら。吾輩が言いたいのはどんな恵まれた人にも必ず二つの問題がついて回るということだ。それをこの二つの門が」
「はいはい。もう難しい話はここまで」

 子どもをあしらうような言い回しにカチンときたが、視界の端に顔をゆがめた龍一郎が映れたので言い返すのはやめた。
 この数カ月、何度も目にする痛々しい表情。その都度、医者に診てもらうことを勧めたが、躰のいい言葉で流されてきた。
 具合を尋ねようとしたとき、ルイスハズキが龍一郎に向かって話し始めた。

「ねえ、それよりリュウ。アデリーナからは、連絡あるの?」
「ああ、昨日もメールが届いたよ」
「素敵ね。世界が嫉妬するわよ」
「俺はただの絵描きだよ。ちょっと音楽家に好かれてるだけで」
「あらあら、ヨーロッパで最高の新人賞を取られたお方が、ご謙遜を。それにしても私をモデルにした絵が世界のプリマの部屋に飾られると思ったらクラクラしちゃうわ。パパもほんとに喜んでるのよ、彼女の大ファンだから。あの歌声って心の奥底まで沁みこんでくるのよねえ」

 ルイスハズキは観客席で舞台をウットリ眺めるような表情を浮かべた。

「そうだわ、一つパパに聞いてくるように頼まれてたの。ねえ、リュウ。リュウはどうして最初にキャンバスを真っ黒に塗るの? 前にも聞いたけど、そろそろ教えてよ」
 龍一郎は白い歯を見せてから、人差し指を口の前に当て「企業秘密」と答えた。ルイスハヅキは、ふーん、といった顔つきで龍一郎を見つめていたが、妙なしなりをつくり「ねえねえリュウ、あのことだけど」と目配せしながら言った。龍一郎が、掌で口の辺りを撫でまわしてから中途半端にうなずく。
 そして、中途半端に吾輩の方を見て、「ミオ、悪いけど大事な話をするからちょっとはずしてくれないかな」と言った。

「書類の作成は終わったし、課題のレポートが出ているから今日はもう帰る」
「有難う。レポートはどんな課題だい?」
「幸福論と、フランスの哲学者・サルトル」
「ミオちゃん、すごく勉強出来るものね。東大も確実っていわれてたんでしょう? どうして受けなかったの」
「東京には龍一郎がいないからだ」

 虚をつかれたルイスハヅキは目を白黒させた。いい表情だ。
「ではこれで。龍一郎、今日は早く切り上げたほうがいいぞ」
 吾輩は、メガネの中央部・ブリッジの部分を指でクイッと押し上げた。龍一郎が、軽くうなずく。
 ドアを閉めると、廊下にもコーヒーの濃厚な香りが漂っていた。ショパンの調べも聴こえる。そして、これみよがしのルイスハズキの笑い声も。

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