人間関係

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理不尽なことが起きた時のブッダの処方箋

こんにちは、編集部ディレクターの晴子です。

皆さまからの質問にブッダの教えからお答えします。

■質問

仏教では「良い行いをすれば良い結果、悪い行いをすれば悪い結果が表れる」という因果の道理が教えられていると聞きました。

でも、私の会社では真面目に働いている人が評価されなかったり、昇進を狙っている人が人の成功を奪ったりして実際に給料や地位が上がっています。

やはり「正直者は馬鹿を見る」こともあって、こういう場合は因果の道理が成り立っていないのではないでしょうか?

そのようなことがあると残念ですね。

会社をはじめ、いろいろなコミュニティで理不尽だなと思われることがよくあると思います。

仕事ができる、できない、真面目、不真面目 ということ以上に、人間関係が会社での評価には大きいのかもしれないですね。

その会社で評価されないのなら、自分の力が発揮されるコミュニティや会社に転職すればよい、というのも、一つの考え方だと思います。

しかし、今日は仏教の因果の道理を知っていただくために、あえて2つの点から、理不尽なことが起きた時の考え方をお話ししたいと思います。

1.幸せってなんだろう

まず、「私にとっての幸せ」って何でしょうか?

それはお金だ、地位だと思うでしょうか?

理不尽な評価がされるような会社で地位が上がることが、あなたの幸せですか?

人から嫌われたり信頼を失いながらも地位を得ることが、あなたの幸せですか?

もしそう思えば、今回のことは、頑張った努力が悪い結果に終わってしまった、ということになりますが、幸せというのは 、人の為になったとか、人に信頼してもらえた、自分が信じる正しいことを貫けた、そういうところにもあるのではないでしょうか?

楽は下にあり?

日・欧・米で活躍するピアニストのフジコ・ヘミングさんは、次のように言っています。

その時は不幸だと思っていたことが、後で考えてみると、より大きな幸福のために必要だったということがよくあるの

「楽は下にあり」とも言われるように、実力を伴わずに立場が上がることは、必ずしも幸せとはいえないと思います。

立場には、果たすべき職務上の責任が、必ずついて回ります。

うまく仕事がこなせず、上司からも部下からも、常に「無能な人」の冷たい視線で見られるのは、まるで針のむしろにいるようなものでしょう。

八つ当たりすれば、余計に周囲の心は離れていきます。

反対に、分相応な仕事に一生懸命取り組み、仲間と楽しく働けることは、かえって幸せを感じられるものです。

このように、「立場が得られない」という一見不幸に思えることでも、実は、幸せなのかもしれません。

また、会社で真面目に働いていた人が評価されなかった時にでも、質問者さんのように、その努力を見ている人が必ずあると思います。

そういう心有る人からは、「あの人は評価はされなかったけれども頑張っている、信頼できる、応援したい、いい人だ」と思われる、それは非常に幸せなことではないでしょうか。

上司から評価されなくても、他の人から真面目に働いていることを見てもらえた、というところに、喜びや満足、幸せが感じられるのではないでしょうか。

真心つくせ、人しらずとも

さらに、仏教の因果の道理を教えられた、昔から伝わる次のような歌があります。

「あれを見よ みやまの桜 咲きにけり 真心つくせ 人しらずとも」

山奥深くに咲く桜は、誰も見ていなくても美しい花を咲かせています。

たとえ他人の目がなくても、心を正し、善いことをすれば、必ず幸せになれるのです。

実践していけば、間違いなく「誰も見てくれていなくても自分がやるべきことをやれた」という満足を得られ、「良い行いをすれば幸せという良い結果が表れるのだなあ」と実感できると思います。

もちろん、周りで真面目に頑張っているけれども評価されない人がいたら、ぜひ「私はあなたが頑張っているのを見ていたよ」と声をかけてあげることが大切です。

「良いことをしても報われない」「感謝されない」「無意味だ」と思ってしまったら、良いことをしよう、みんなの為に頑張ろうという気持ちになれません。

それどころか、「どうせ頑張っても意味がない」「私もズル賢く生きよう」「真面目に生きるのは辞めよう」などと無気力になって、その方の苦しみが、どんどん深まってしまいます。

まずは自分の身の回りから、努力している人が「あぁ、やって良かったな」と思えるような環境を少しずつでも作れるように、周りの頑張りに声をかけていきたいものですね。

2.逆境の時には

人生には思っていることが叶っていく順風満帆な順境と、思い通りにならない逆境があります。

嫌なことを言われたり、事故が起きたり、思いもよらない結果が来たりすると、「なんで私がこんな目に」と思います。

これには、因果の道理の「縁」という点から考えてみたいと思います。

因果の道理の「縁」とは?

この世の一切は、自分だけで存在しているのではなく、周囲のものに支えられ、関わり合って存在しています。

例えば「米」という結果の現れる原因は、モミダネです。

種がなければ、決して米はできません。

しかし、いくらモミダネがあっても、日光や水、空気、土、肥料などの環境が整わなければ、生育しないでしょう。

モミダネという直接的原因が、米という結果になるのを助ける、環境が必要です。

そのような「間接的原因」を、科学では「条件」といい、仏教哲学では「縁」といいます。

悪いことをしていないのに突然悪口言われた、思い通りにならない人事異動、周りで起きるアクシデント……。

これらは、周りの環境、仏教で言えば「縁」です。

そのとき私はどうするのか?

周りの環境は、私の都合とは関係なく様々起きます。

ちょうど、天気のように、私の思いとは関係なく晴れになったり嵐になったりしますね。

今は大雪や急激な寒さで嫌だ、と思う人もあるかもしれませんが、そんな私たちの思いとは関係なく雪は降ってきますし、気温は下がります。

同じように、私の都合とは関係なく、嫌なことを言う人が現れたり、自分の思いとは関係なく人事異動が決められたりします。

そういう「縁」に対して、私は一体どのように考え、行動するのか、これが仏教の因果の道理の「因」になります。

自業自得と言われるように、同じ縁、環境であっても 、それに対してどのように考え、行動するかによって、その人の幸福や世界は変わります。

一例をあげますと、同じストレス環境下にあっても、ストレスが体に悪いと思う人は健康を損ない、ストレスは自分が成長するためのものだと思っている人は健康を害さないそうです。

周りで起きる理不尽な事に対して、「最悪だ」と思うか、「勉強になるなあ、もっと頑張ろう」と思うかによって結果は変わります。

心がけが大切

仏教では、体を動かす行いだけでなく、心の中で「思う」ということも行いとなります。

それどころか、「殺すより 劣らぬものは 思う罪」といわれます。

驚かれるかも知れませんが、実際に体にかけての行いよりも、心の中で思う行いは、はるかに重いのだと教えられるのです。

体に命じて動かすのは心だから、です。

良い心の行いをすれば幸せになれる。

悪い心の思いをなせば苦しみ悩む。

いずれにしても、心がけ次第によって、結果が変わります。

晴れの日も雨の日も嵐の日も、良い心がけ、良い行いに励んでいきたいものですね。

理不尽なことが起きた時のブッダの処方箋|まとめ

【まとめ】
・何が幸せなのか、考えてみましょう。一見すると不幸に思えることが、実は幸せかもしれません。

「あれを見よ みやまの桜 咲きにけり 真心つくせ 人しらずとも」。周囲の目を考えず、陰日向なく努力することが、幸せに必ずつながるのです。

・周囲の環境に振り回されることなく、因果の道理を信じて、幸せになれる行いをしていきましょう。

・仏教では、「特に心の行いが大切だ」と教えられています。

この記事を書いた人

ディレクター:晴 子

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