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悲しみに沈む人は、世にあふれています。
まるで、この世は悲しみの海のように、悲しい涙で満たされています。何とか、この悲しみを癒やす道はないものでしょうか。
「でんでん虫の悲しみ」(新美南吉)という私の好きな童話があります。
とても短い話です。そして、様々なことを考えさせられます。今日は、この「でんでん虫の悲しみ」から、悲しみを癒やす道について掘り下げ、古典の言葉を仰ぎたいと思います。
悲しみを癒やす道を知りたい人のために、まずはじめに、物語を紹介しましょう。なお、原文は全てカタカナで書かれています。カタカナのほうが、でんでん虫が角を突き合わせて会話をしている情景が思い浮かぶように感じます。しかし若干読みにくいので、今回は、漢字ひらがなに直しました。
せっかくの情感あふれる物語の意味を説明するのは無粋かもしれませんが、味わいながら、感動を分かち合いたいと思います。
ある日、一匹の「でんでん虫」が、大変なことに気がつきます。「今までうっかりしていたけれど、わたしのせなかのからの中には かなしみがいっぱいつまっているではないか」と驚いたというのです。
背中の殻は、生まれながらに背負ったもの。生来、悲しみを背負っているということに、ある日突然、でんでん虫は、気づきました。その悲しみによって、深く自分自身の心と向き合うようになります。
私たちも、人生でたくさんの悲しみを得ています。しかし、そんな悲しみを誰にも言えず、かたい、カタツムリの殻のような心の中に、独り、抱えているのかも知れません。誰にも言えない悲しみを抱えることが、なお悲しみを助長しています。
哲学者・三木清は、「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にある」と言いました。どれだけ大勢に囲まれていても孤独なのは、心の真の理解者がいないからでしょう。親子、兄弟、夫婦、親友でも、心の中を全て、洗いざらい、打ち明けることができるでしょうか。
もっと言えば、そもそも、私たちは生まれながらに悲しき存在です。禅僧・一休は「タライより タライに移る 五十年」とうたいました。はじめのタライは産湯のタライ。誰しも裸で生まれてきます。やがて成長し、毎日、ほしいものを手に入れようとして、あくせく生きる。様々なものを手に入れます。しかし、「タライに移る五十年」。こちらのタライは、棺桶のタライで、死んでいく時には、全てを置いてこの世を去る。裸で地上にやってきて、裸で地下に去っていく。そんな人生に、一体、どんな意味があるといえるのでしょうか。
今までうっかりしていたけれど、そんな姿をしていることに、「でんでん虫」はある日、突然気がつくのです。
悲しみを癒やすヒントを、いよいよ学びましょう。幸いな事に、このでんでん虫には、友達が何人もいました。そして、でんでん虫は、友達のところに出向いて訴えるのです。「わたしはもう生きていられません」。すると、友達のでんでん虫は「なんですか」と答えます。
さて、この「なんですか」の一言は、どんな心なのでしょう。
「何でそんなことを言うのですか・・・」という、理解できない、というニュアンスでしょうか?
「何ですか!」という、「そんな弱い心でどうするんだ!」という叱る気持ちでしょうか?
あるいは、「今忙しいのだ。そんな面倒なことを持ち込まないで欲しい、なんだよ、嫌だなぁ」こんな迷惑がる言い方でしょうか?
解釈はいろいろでしょう。しかし、私は、「何を悩んでいるの、どうかしたの、話してごらんよ」の「なんですか」だと思います。そうでなければ、でんでん虫は心を開いて話し始められなかったはずだと思うからです。
友達のでんでん虫のように、私は「思いやり」の心で接しているか、相手に心を開いているか、反省させられます。自分のことで精一杯で、それを恥ずべきこととも考えていないような、貧しい心の姿でないか。
このでんでん虫は幸せで、友達はすてきなでんでん虫だと思います。
さて、でんでん虫は友達から、「あなたばかりではありません。 わたしのせなかのなかにも かなしみは いっぱいです。」と聞かされます。
悲しみばかりの中を生きねばならぬ意味が分からない。そう打ち明けるでんでん虫に、「私もそう」と寄り添う、共感かもしれませんね。一見すると、のんびり歩いている友達のでんでん虫も、自分と同じ悩みを抱えていたことに、でんでん虫は驚いたことでしょう。
水戸光圀は、「ただ見れば 何の苦もなき 水鳥の 足にひまなき わが思いかな」と歌いました。水面を軽やかに滑っていく水鳥も、水面下ではせわしく足を掻き続けています。はたからは幸せそうな人生も、人知れず憂苦を抱えているのです。
それでは相談しても仕方がないと考えて、一人ひとり、順々に友達を訪ねてみます。ところが、どの友達も同じ事を言うのです。「あなたばかりではありません。わたしのせなかのなかにも かなしみは いっぱいです。」
そして遂に、悲しみは誰でも持っているということに気づくのです。
今まで、自分のことばかり考えていた「でんでん虫」はここで一気に成長します。友達の心の中、殻の中を想像する心、大きな心が育ったのです。
人生は、悲しみの連続であって、それが人生の真実だと悟るのです。その悟った思いが、最後の言葉、決心の言葉を生みます。「わたしの悲しみをこらえていかなければならない」。ここで生きる覚悟、生きてゆく力が湧いているのです。この小さな物語は、「もう嘆くのをやめた」と、記して終わります。
心を動かす、童話の力は大きいと思います。友だちが悲しみに気づいたでんでん虫の心に寄り添ってあげる。そして励ます。そして、でんでん虫もその悲しみを堪えて行こうと勇気を起こすことができる、そういうお話です。
しかし、私は同時に思いました。「はじめのでんでん虫は、この物語で本当の意味で生きる力を得ることができるのか」という素朴な疑問です。本当に悲しんでいる人には、慰める力、生きる力を与えることとなるのでしょうか。今の悲しみを乗り越え、強く生きる慰めになるのでしょうか。
今日の心理学からは、悲しんでいるその人に向かって、「私も悲しみがあるのだ」と言って寄り添い、理解に努めることで「慰める」ことはできても、決して、その人の悲しみ、その人の心の問題を「なくす」ことはできないということを学びます。もちろん、そのような共感は大切だと、強く思います。でも、それだけでは根源的な解決にならないことも確かです。
親友がいてくれて、一緒にいてくれることで、癒やされます。でも、でんでん虫の殻がなくならないように、悲しみはなくなりません。むしろ、悲しみはいつまでも心の底深くに沈み、旅の間、背負っていかねばならないものです。
また、現実には、共倒れになる場合もあります。
「そんなに簡単に言わないで欲しい。あなたの悲しみと私の悲しみは違うのだ、だから、あなたが悲しいのは事実そうかもしれないけれど、わたしは自分の悲しみでもう生きる力も勇気も希望もないのだ」と言い返されてしまうこともあります。
文芸評論家の亀井勝一郎は、「友情は孤独の何たるかを知らせます」と言いました。悲しみを本当に分かり会える「心の友」を求めて、人生の旅を続けている私たち。でも、親友は、一人一人の本心は、他人には、のぞき見ることはできないということを教えてくれます。敏感な人ほど、寄り添うことの難しさと、寄り添えば寄り添うほど知らされる、人間の限界を感じることでしょう。
では、この悲しみと孤独を、真に解決するには、どうすればよいのでしょうか?
それについて、日本の古典『歎異抄』は、その謎を解くカギを与えてくれます。
『歎異抄』には、次のように記されています。
“弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、こんな親鸞一人のためだった。これ程量り知れぬ悪業をもった親鸞を、助けんと奮い立ってくだされた本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか”
仏典には自分自身でも知りえぬ、秘密の蔵の心があると、説かれています。
遠い過去からの我々の行為や経験、悲しみや苦しみが、全ておさまっている人間の本心、その、誰にも理解されず、孤独に震える私の魂を、隅の隅まで知り抜かれて、「そんなお前を、そのまま絶対の幸福に救う」と誓われたのが、阿弥陀仏という仏さまだった、と、孤独から解放された心の世界の告白です。
『歎異抄』に刻まれた救いは、私たちに光を与えてくれます。それは、「わたしもつらいから、一緒に悲しみましょう」という癒やしにとどまらない、私たちを前向きに、積極的に、希望を持って、大胆に、明るく生きさせる力です。この世界の厳存を知らされ、そこに向かってこそ、私たちは本当の意味で「こらえていかなきゃならない」と言えるのではないでしょうか。
しかし、『歎異抄』は日本で最も読まれている仏教書といわれる一方、チャレンジしたものの難しくて歯がたたず、挫折してしまう人も多いようです。そこで、この『歎異抄』のこころがよく分かるようになる、15通のメールと小冊子(PDF)を用意しました。ただいま無料で配布しております。いつまでも無料提供できるかどうかは分かりませんので、関心のある方は、このご縁にこちらからお受け取りください。
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