コラム

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狩猟体験記を読んで、命の重さを考えた

こんにちは、齋藤勇磨です。

狩猟体験記、『アロハで猟師、はじめました』を読みました。

著者は、東京渋谷育ちの新聞記者、近藤康太郎さんです。

某大新聞社の大分県日田支局長にして編集委員、音楽評論家としても知られます。

長崎に移住した著者は、耕作放棄地を借りて稲作を始め、農業を通じて人とのつながりが生まれます。

耕作放棄地は猪の格好の生息地となり、作物を荒らします。

そこで、恩返しとして、猟師となり、猪狩りをしようと考えた、といきさつが語られます。

「スーパーの肉」の先にある命

新聞で連載を始めたとき、見ず知らずの人から「ゲーム感覚で猟を勧める、ふざけた記事」と、X(旧Twitter)で批判されたそうです。

しかし、浮かび上がる、襟を正して命を「頂く」姿勢は、遊び半分に命を「奪う」、浅薄な猟のイメージとは、真逆に感じます。

スーパーでパックされた肉片を消費する私たちが、普段、その先にある命に思いを致すことは難しいでしょう。

本書は、その「生き物」と「商品」の間を埋めてくれます。

著者は、撃ち落とした鴨を、はいつくばってでも探し出します。

猪や鹿を汗まみれで解体する場面では、「死」を見せないため、いかに煩雑な工程を踏んでいるか描かれます。

合間には、大岡昇平の『俘虜記』やボードレール、金子みすゞの詩とともに、著者の哲学的な考察が挟まれます。

「屠った家畜を、他人に解体してもらい、きれいに精肉してもらい、パッケージされた商品をカネで買う。肉の先にあるいのち、いのちの処理過程に、思いを馳せることは一度もないような消費者の行為を、それでは、なんと呼ぶのだろうか。猟師と同じ、むしろそれより残酷だと、先の読者は言ってくれるだろうか」

「生きるため」という人間の都合で、命を奪っている現実を、隠さず描く文章に、大変、考えさせられました。

「食べる」と「生きる」

私は、宮崎県の海辺に生まれました。

隣に、祖父母宅がありました。

祖父はちりめん漁師で、早朝になると、自転車で漁に出掛けます。

荷台には、焼酎の一升瓶と、白米がいっぱいの飯ごう。おかずは「海で調達する」から要らない、といつも言っていました。

小学校から帰宅すると、祖父母宅に行き、庭の干し網を物色します。

その辺のちりめんには、目もくれず、イカの赤ちゃんなどの「レア物」ばかりを両手いっぱいに集め、おやつにしていました。

干し網をのぞくたび、小魚の目が自分を見つめ返します。

「私の体は、ちりめんでできている」と、幼心に、よく思っていました。

近所には牛や鶏を飼っている家も多く、「生き物を食べて生きている」が日々の実感でした。

私たちは、食べなければ生きていけません。

当たり前のように繰り返している「食べる」という行為は、私たちが「生きる」ことと密接に関係しています。

日本の「動物愛護法」の概要を記した環境省のホームページを見ると、「愛護動物を虐待したり捨てる(遺棄する)こと」は犯罪で、罰金だけでなく懲役にまで処せられるようです。

ところが、その法律でいう「愛護動物」をよく見ると、犬や猫に並んで、牛や豚、鶏も入っています。

ペットなら愛護動物ですが、すき焼きにしろ、トンカツにしろ、牛や豚を殺さなかったら食べられません。

ちなみに、法律では、当然のように、「食用」は「正当」と見なされています。

なぜ、人間が食べるためなら”正当”といえるのでしょうか。

仏教の「3とおりの殺生」

仏教では、すべての生命の重さは平等であり、殺生は人間の都合と関係なく、恐ろしい悪であると説いています。

しかも、一言で「殺生」といっても、殺し方によって3とおりに分けられています。

「自殺」「他殺」「随喜同業」の3つです。

最初の「自殺」は、自分で生き物を殺すこと。自ら命を絶つ、世間でいう”自殺”とは異なります。

「食べるためにはしかたがない」「害を与えるから」と私たちは、どれだけの生き物を殺しているか分かりません。

一杯のカレーを食べるだけでも、多くの命を奪っていると、知らされます。

次に「他殺」とは、他人に依頼して生き物を殺させる罪。直接手にかけて殺さずとも、自分が殺したのと同罪と教えられています。

肉や魚を食べる人は、自分で殺してはいませんが、食べる人がいなければ、肉屋も魚屋も、殺生をしないでしょう。

肉の好きな私たちが肉屋さんに頼んで牛や豚を殺してもらっているのですから、自ら殺さなくても「他殺」の罪を犯していることになります。

3番目の「随喜同業」は、他人が生き物を殺しているのを見て楽しむ罪をいいます。

“生きるためにはしかたがない”とはいえ、これまで殺して食べてきた生き物の数は、千や万では済まないでしょう。

しかし、生き物を食べずには生きられないのが、人間のどうにもならない姿です。

右手で生き物の命を奪いながら、左手でペットをかわいがり、動物愛護の善人とうぬぼれている私たち人間は、仏眼からすれば、始末に負えない極悪人に違いありません。

「知るとのみ 思いながらに 何よりも 知られぬものは おのれなりけり」

私のことは、私がいちばんよく知っていると思いがちですが、自分ほど不可解なものはない、と歌われています。

真実の自分の姿が知らされなければ、本当の幸せにはなれません。

自己を知ることこそ、幸せになる出発点。

ブッダが、人間の実相(ありのままの姿)を詳しく説かれているのも、うなずけます。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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