「なぜ生きる」の答えはわずか漢字2字で答えられる~幸せと本当の幸せの違い(1)
人生の目的(なぜ生きる・生きる意味)の答えはわずか漢字2字で答えられます。目先の目標にとどまらない、自分が本当の幸せになれるヒント。
こんにちは、高松です。
今日は、人生の目的について講座で話をした時に疑問を投げかけてきた、20代後半の男性・Aさんとのやりとりを、紹介したいと思います。
20代の人向けに講座をすることがあります。仏教の知識のない方でも参加できる講座なのですが、そこには様々な考えを持った方が参加されます。
毎回テーマを決めて話をしていますが、ある日の講座のテーマが「人生の目的」でした。
そこに参加されていた20代の男性・Aさんが、講座中に「そんなこと、考える必要あるんですか?」と質問してきました。あなたは、この質問をどう思われますか?
正直、私自身も仏教と出会うまでは、考えたことのない問いでした。なぜなら、そんなこと考えなくても生きてこれたからです。「考える必要があるのか?」と聞いてくる人は、たいてい、今はある程度順調な人が多いです。しかしそんな順調な人生も、いつまでも続くということは考えられません。逆境に陥った時に、自分の存在意義を考えないでいられるでしょうか?
その時、私はAさんに、人生に目的が必要であるということを、こんな例えでお話ししました。
私たちが「生きる」ということを「歩く」とか「走る」とか「泳ぐ」とか「飛ぶ」ことに例えます。例えるということは、何かが共通しているということです。共通していないと、例える意味がありません。何が共通しているでしょうか?
「歩く」にしても「走る」にしても「泳ぐ」にしても「飛ぶ」にしても、止まってはいられません。どこかに向かって進んでいますよね。「生きる」こともそうです。
いつまでも10代、20代で止まっていたくても、どんどん時間は進んでいきます。止まってはいられないのです。「止まってはいられない」。そこが共通点ですね。
もし皆さんが今、歩いている人に「あなたは、どこに向かって歩いているのですか?」と仮に聞いたとしたら、きっと相手の人からは「ちょっと駅まで」「郵便局に」「自宅に帰る途中」「行く場所は決めてないけど、健康のため」など、歩いている目的を答えてくれることでしょう。
ではもし「あなたはどこに向かって歩いているのですか?」と尋ねた時に「? そういえば、そうですね。いやあ、考えたことなかったなあ。まあとりあえず歩くために歩いています」。こんな人がいたらどうでしょうか?変な人に会ったな、と思うでしょう。これはおかしなことです。
もし歩くために歩いているとするならば、いつまでも歩いてはいられません。やがて倒れてしまいます。ということは、この人は倒れるために歩いていた、ということになってしまうのです。「走る」や「泳ぐ」や「飛ぶ」も同じです。目的地なしに飛んでいる飛行機は、墜落の悲劇あるのみです。
この例えからも分かるように、人生の目的がもしなかったら、人は「死ぬ」ために生きていることになってしまいます。
ここまで話すと、Aさんは納得した顔になって、次の言葉を聞き漏らすまいという態度に変わってきました。そこで私はAさんに、仏教で解き明かされている人生の目的とはどんなものか、次にお話ししました。
人生の目的を一言で言うと「幸福」「幸せ」です。
「幸せ」とはどういうことでしょう。「幸せ」とは、心に「安心」もしくは「満足」がある時、私たちは幸福を感じます。では、どんな時に「あ~幸せだ」と感じるでしょうか?そこは、人それぞれ違いますよね。
Aさんは、自分はテニスをしている時が幸せだ、と言いました。近くのBさんは、自分はカラオケをしている時が幸せだと。またCさんは映画を見ている時と答えました。そこに来られていた方が口々に、「美味しいものを食べている時」「温泉に入っている時」「寝てる時」・・・さまざまな答えを発言してくれました。本当にバラエティに富んだ答えでした。では、いま答えてくれたものが「人生の目的」となるでしょうか?
私たちは「今日は幸せだけど、明日からは不幸続き」という人生では心から喜べません。暗い未来が待っていると、今から暗くなってしまうからです。
ところが私たちの知っている幸せは、すべて色あせ崩れてしまうものばかりだと、仏教では2600年前から教えられているのです。これは2600年前だからなのでしょうか。そうではありません。「諸行無常」と教えられるように、すべてのものは今も変化し続けているのです。
人生の目的は、「これ一つ達成したら、いつ死んでも悔いなし」と言えるものです。なぜそのような定義づけができるのでしょうか。
皆さん、レストランに行く目的は何ですか?と聞かれたら「食事」と誰もが答えるでしょう。実際に私も講座でよくこの質問をしますが、皆さん間違えられません。
ですがレストランは他のこともできます。話をしたり、本を読んだり、仕事をしたり。ただ、どれだけ友達と話が弾んでも、本が楽しくても、食事をせずにレストランを出なければならないとなったらどうでしょう。
ハンバーグを注文したのに出てこない、食べずにレストランを出ることになれば、当然、スッキリしません。悔いが残ります。本来の目的が果たせていませんから。
しかし、ハンバーグはちゃんと食べた上で、レストランをでることになれば、レストランを出ても悔いは残りません。食べかけで、仕事で呼び出されて不本意に出なければならなければ、悔いは残るでしょう。
今度は人生を場所に例えます。場所を出るということは人生から出る、死ぬということです。レストランの例えでは「これ一つ達成したら」に当たる「これ一つ」は「食事」今回なら「ハンバーグ」です。ハンバーグを食べたなら、ということです。
「いつ死んでも悔いなし」とは「いつレストランから出ても悔いなし」ということになります。レストランの例えで「食事」に例えられているのが「人生の目的」です。この「人生の目的」さえ果たせば、いつ人生という場から出ても悔いはなし、ということになります。
この例えで、なぜ人生の目的が「これ一つ達成したら、いつ死んでも悔いなし」というものになるのかが、お分かりになると思います。
この定義に私たちの知っている幸せをどれだけ当てはめても、しっくりくるものは1つもありません。「諸行無常」の世において、そんなものはないと私たちはあきらめてしまいます。ところがそんな私たちが、本当の幸せになれると、仏教では教えられているのです。
Aさんはここまで話を聞かれて、「それはぜひ知りたい。みんな聞きたいのではないですか?」と目を輝かせながら聞いてこられました。Aさんだけでなく、そこに一緒に聞いておられた人も大変驚いた様子で、聞きたいとせまってきました。
誰もが知りたいその本当の幸せと、そんな幸せになる方法の2つが、仏教には詳しく教えられているのです。
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