幸せとは

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【カムバック!】田中進一の世界(三月十七~十九日)『フライザイン~死に対して自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語』

【カムバック!】田中進一の世界(三月十七~十九日)

 昨夜もこっぴどく妹にやられた僕は、今日こそ美桜さんにちゃんと声をかけねばと堅く決意した。実際、タイムリミットまで、あと二十四日しかないのだ。
 珍しく作戦も考えた。

 まず現状として

1:美桜さんは、再び文学部の校舎に来る可能性が高い。
2:彼女はニーチェの『ツァラトゥストラ』に出てくる「死について自由な心」の研究中である。

 この貴重なデータを活かさない手はない。まず、いかに美桜さんとのキッカケをつくるか、だ。ここがこけては始まらない。
 思案のあげく、ひねり出したアイディアはこうだ。

 まず、きっと来るであろう文学部の校舎の前で美桜さんを待ち伏せし、「ちょっとすみません」と声をかける。

 そしたら、昨日の今日だから「あ、昨日はどうも」くらいの言葉は返ってくるだろう。そうなれば「こちらこそ、どうも。僕も図書館で調べ物をしていまして、実は、〝 生きる意味〟とか〝 死〟について論じている哲学者を探しているのですが、誰か思いつく哲学者はありませんか?」くらいの質問をするのだ。これなら出来るかもしれない。いや、やらねばならない。

 美桜さんは、死について研究中なのだから、この質問には共感を覚えるはずだ。〝生きる意味〟に反応があればベスト、そこがはずれても〝死〟の方はヒットするはず。うん、この二段構えはうまくいきそうだ。我ながら名案。よし、これでいこう! 
 僕は、意気揚々、文学部の校舎に向かった。

  ・・

 昨日もおとといも、美桜さんは来なかった。まる二日を無駄にしたことになる。そして、〝待つ〟という行為がいかに苦痛か思いしらされた。自分の計画に酔っていた僕はひどく落胆し、苛立たしさがピークを極めていた。

《このままではまずい、さすがにまずい。会うことさえ出来なければ何も始まらない。場所を移すか?》

 そう思って目的地も決めずに歩き始めると、ボブティが気持ちよさそうにノビをしていた。ふうと息をつく。「お前はいいよな」と、つぶやきつつ左に曲がる。と、忘れもしない、独特のオーラを漂わせた、あのメガネの女性が歩いているではないか!

 全身がゾクゾクした。これが世にいう武者震いってやつだろう。 

 今日も何かを読み、器用に片手でページをめくりながら歩みを進めている。
 僕は声をかけるタイミングをみはからった。いかに声をかけるか。必死に頭を働かせ、決意を固めようとした。

 しかし、心の準備が出来る前に、女性は、僕の前を通りすぎようとしている。あれあれっと思っているうちに目の前まで来た、いやもう通りすぎた。「あ」とも言い出せずにいると、「みゃあ」とボブティが鳴いた。

 するとその女性は立ち止まり、ゆっくりと、あの吸い込まれそうな、アンニュイな瞳をボブティに向け「やあボブ」と言った。
《ボブ?》あっけにとられていると、ボブティは、メガネの女性は無視して僕に近づき、スリスリと足にすりより、ドテリと僕のつま先に体をあずけた。

 意外そうな顔で女性は僕の顔を見た。目と目があった。

「あ、あの、この猫、ボ、ボブっていうんですか? あ、あの、僕は、この猫を実は、ボ、ボブティって呼んでるんですよ。えと、き、キグーですねえ」

 僕は必死だった。この発言は、清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟をもってなされたものだ。凡人にとって、美人に声をかけるとはそれほどの大事業なのだ。

「うむ。かなり低い確率の一致であるな」そう女性は言った。

《うむ?》そんな巨大な疑問符がまたしても去来し、肝心の返す言葉を考える余裕すらなかった。パクパクとまたも金魚のように口を開いている間抜けな僕に女性は言葉を続けた。

「いや、こう言ってはなんだが、猫に好かれることにおいて、吾輩の右に出るものはいまだかつてなかった。しかし、そなたは吾輩以上と見受けられる。そなた何者?」

 何者といわれてもあやしい者ではございませんくらいしか言葉が浮かばない。
 ただ、女性の瞳は僕を怪しむというより、なんと言うか、そう、それは尊敬のまなざしに近いものを感じた。
 よく分からないけれど、ともかくきっかけは出来た。この好機を逸すれば、千載に悔いを残すやもしれない。僕は決死隊の覚悟をもって切り込んだ。

「あ、あ、あの、今、ちょっとですね、ぼ、僕は、あの、哲学者をですね、あ、あの、生きる意味、生きる意味ね、それを、えっと、哲学者で生きる意味について特に論じている、あの、おすすめの哲学者って、どうでしょうね、あ、どうでしょうねというのは、そのことを語っている哲学者を探してるんですよ。あ、それから、し、しー、あの死、ね、死。死についても、ちょっと、考えてる哲学者で、その、これもお勧めってものを知りたいんですよ、うん」

 もう、嫌になるほどカミカミで、心臓はバクンバクンと暴れかえっていたが、なんとかそこまで口にした。舌を噛まなかったのが奇跡とも思えた。

 すると女性は、真妙な顔つきになった。
 これはまずいと感じた。我ながら僕は変なことを変な口調でいっている変な人で、まずい状態になるのは必定だ。
 沈黙する女性を前に《ああ終わった、これですべてが終わった……》と絶望しかけた。

 ところが、この女性は、アゴに手をあてながら何やらブツブツ言い始めた。どうもハッキリ聞き取れなかったけれど、それは「ハイデッガー翁は、存在の意味を問う問いは、最も深い問いで、最も根源的で重要な問いと言った」などというようなものだった。

《天才は、やはり違う》そう感じさせるものがあった。
 そして、僕は、その女性の手から伸びる桜色の爪に心奪われていた。

 日本にたくさんの桜色はあれど、これほどの美しさは存在しないのではなかろうかと思わせるほどの煌(きらめ)き。真っ黒で不気味な妹の爪と対照的だ。
 そんな別世界に飛んでいる僕に対し、その女性は「吾輩はな」と話し始めた。

《ワガハイ?》

 僕の頭の中は、まるでマンガのワンシーンのように、はてなマークで一杯になった。
 そんな僕に構わず言葉が続く。

「昨日も少し言ったが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に出てくる『死に向かって自由、死に際して自由な心』について研究中なのだ

「あ、そ、それ、いいですね、死に、死について、自由な心、うん、ほんとに、うん、いいですね。うん、実際。あ、あの、ミ、いや、あの、そのテーマについて、僕も一緒に学びたいんですけどえっと、そういうことってやっぱ、やっぱり駄目ですかね?」

 言ったあとに、ずうずうしすぎたかと思い大量の冷や汗が出たが、沈黙より百倍ましだ。自分としては上出来すぎる。これでダメなら仕方ないとも思い始めていた。

 その女性は、じっと僕の顔を見つめていた。

 心臓の音が聞こえてしまうのではなかろうかと心配になるほど胸が高まる。焦りで胸の中がもう大変な状態へとなっていく。顔も真っ赤になっているかもしれない。いや間違いなくなっている。もう数秒この時間が続いたら僕は僕自身が耐えられなくなって叫びながら逃げ出してしまうのではないかと感じ始めた。その時、

「すまん」
と、女性は頭を下げた。

 そして、
「すまんが、この研究は急ぐのだ。人一人の命がかかっているのだ」
と言った。

《人一人の命だって?》

 僕はたまげてしまった。そして、グルグルと懸命に思考を働かせた。《この女性も、僕と似たような境遇にあるのだろうか? 誰かを助けようとしているのだろうか?》頭がわたわたになる。

 女性は言葉を続けた。
「そういうわけでな、この件が片付いたら少しはそなたの力になれるかも知れぬが」

「あ、あの、邪魔とかはしませんから、えと、教えてもらうことは出来ないでしょうか? あの、実は、実はこっちも、実はかなり、かなり深刻な状況で、それで、けっこ、けっこ、結構、実は、いそいそ、急いでまして」

「すまんが、今は余裕がないのだ。わかってくれ」
 そういって女性は空しくも前を通過していった。

 僕は、これ以上のやりとりに限界を感じ呆然と見送るよりほかなかった。
 その昔「シェーン・カムバーック!」と叫ぶ映画を父と見たが、僕も「カムバーック!」と叫びたかった。しかし、それも出来ず、視界から彼女の姿が完全に消えていくのを放心状態で見送るばかり。

 そこに、途方に暮れる僕だけが残った。いや、気持ちよさそうに足によりかかって目を細めているボブティもいた。だからどうということではないのだけれど。

「どうしよう」

 しゃがんでボブティに相談している自分が情けない。
 ボブティがペロリと自分の鼻先をなめた。

タイムリミットまで、あと二十二日

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