「身近な人が困っているのを助けたい」「町をきれいにしたい」など、身近な問題に気づき、「ほっとけない!」という思いから自分にできることに取り組むボランティアは、とても素晴らしいことです。
自分の得意なことを活かして、周りの人にもよろこんでもらえたらうれしいですよね。いろんな人との関わりを通して、自分を成長させてくれる場にもなります。
真剣に奉仕活動をしていくことで、自分について深く知らされる機会も得られます。
ここからは、そんなボランティアに取り組んだ瀬戸愛さん(仮名)の体験記です。
人のためになることがしたい
カトリックの中高一貫校に入学した私は、「何か人のためになることがしたい」と思い、夏休みなどには、老人ホームや児童養護施設へのボランティア活動にいつも参加しておりました。
そんなある冬休みのこと。大阪の日雇い労働者の街で、路上で生活する人たちへの炊き出しと、“越冬パトロール”といわれる夜間に毛布を配る活動を、泊まりがけでしたことがあります。
引率は男性教師とはいえ、後は女生徒ばかり。不安と緊張感でいっぱいでしたが、誰もが避けるような支援活動に、進んで参加した誇らしさみたいなものはありました。
ところが現実にやってみると、言いようのない自己矛盾を感じずにはおれなくなったのです。
自己満足にすぎないのか
冬の寒く冷たい路上で、段ボールを敷いて休む人たちに、声をかけながら毛布を配っていく。
ひととおり回ると拠点に戻り、自分たちは温かい風呂に入り暖かい布団で休む。
食べるものにも事欠く人たちに炊き出しをする一方で、自分たちは近くのスーパーで、好きなものを買って楽しく食べる。
「これで本当に相手の心に寄り添っているといえるのだろうか?」。そんな疑問が、心の中に芽生えてきたのです。
寄り添うどころか、心の中では相手を見下ろし、「善いことをしてやっている」と思い上がっているのでは?
相手のためと言いながら、考えているのは自分の都合ばかり。
ボランティアといっても、結局は自己満足かもしれないと、帰りの電車で、複雑な気持ちを抱えていたのを、今も鮮明に覚えています。
善いことをしたつもりが罪悪感すら感じている。これはもうしかたないことなのだろうか?半ばあきらめて大学へと進学した私に、『歎異抄』との出遇いが待っていました。
『歎異抄』に見抜かれた心
ある古典の講座で、講師の方に、それまで抱えてきた悩みを話したところ、間髪入れずに『歎異抄』第4章の言葉を示されました。
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし(『歎異抄』第4章)
慈悲といっても、「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の2つがあることを教えられた『歎異抄』の言葉です。
「聖道の慈悲」とは、災害や事故、病気などで生活に困窮した人々に、お金や物を施して支援する「人間の慈悲」をいう。
大切な行いですが、情けないことに我々の慈悲は続きません。
震災直後は「早く立ち直って」と多額の志も寄せられますが、その熱い思いも半年もたつと薄れてしまう。
また、わが子には惜しみなく与えても、自分と縁遠い人に、同じような施しはできません。
自己中心の我利我利の本性の表れでありましょう。
しかも慈悲のつもりで溺愛し、何でも買い与えたために、かえってわが子をダメにした例も少なくありません。
そんな人間の不完全で盲目な慈悲では、真の人助けはできないのです。
それを『歎異抄』では、「しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし」と書かれています。
仏教に、これほど鮮やかに私たちの行う善の限界が説かれているとは衝撃でした。
『歎異抄』の揺るぎない言葉に引き付けられ、仏教には私の疑問に答えてくれる何かがあることを直感しました。
以来、仏教のお話を聞くようになったのです。
『歎異抄』に示された「浄土の慈悲」とは?
では、「浄土の慈悲」とはどんなことなのでしょうか。
残念ながらここでは書き切れませんので、もっと知りたい方は、ぜひ、お近くの仏教セミナーや講座に参加してみることをおすすめします。いま、幸せについて勉強するなら、仏教がいちばんです。
仏教を学べるセミナーに参加された方の感想を紹介しましょう。
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