幸せとは

幸せとは

成功は量的なもの、幸福は質的なもの。三木清『人生論ノート』の名言と『歎異抄』のことば

こんにちは、月見草です。
皆さんは、成功の量=幸福だと思われますか?私はずっとそう思っていました。けれどもそれは勘違いかもしれないと気づいたのは、三木清の『人生論ノート』がきっかけでした。

時代を超えて通ずる、一般の人向けの哲学

三木清(みききよし)という人をご存じでしょうか。
今から120年前に生まれた哲学者です。120年前というと、とても昔のことで、今と全く違うと思われるかもしれません。しかし、関東大震災から復興していったのは、今の東日本大震災や熊本地震とよく似た状況でした。また、今の日本は戦争はありませんが、会社のために働く今の時代と、お国のために働いた戦争の時代とは、人の心境にどこか似たものがあるような気がします。

戦争の真っただ中に、小林秀雄から「一般の人向けの哲学を書かないか」と依頼を受けて、三木清が記したのが『人生論ノート』です。その内容は、「真の幸福」「孤独」「死」といったもの。それは、戦争の終わった現代も、決して古くなってはいません。

ここでは、岸見一郎『100分de名著 三木清 人生論ノート』(NHK出版/2017.4)をもとに、真の幸福とは何か、考えてみましょう。

自分が幸せであることが、もっともよいこと

戦争の猛火に包まれていたとき、お国のための自己犠牲こそが徳(よいこと)とされていました。自分の幸せを望みながら、表現できない人々の心を代弁して、三木は、このように言いました。

 

「幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。」
「我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。」
(三木清『人生論ノート』)

自分の幸福を求めることは、徳に反するものではない。自分が幸福であることが、最も善いこととまで言っています。
岸見一郎氏は、現代においても同じであると、介護の例を出してこのように解説しています。

介護においても同様です。自分を犠牲にして親を看取ることが徳であり、それを全うしたから幸福なのではなく、自分が幸福であればこそ献身的な介護ができる。自分が幸せでなければ、人にも優しくはなれません。
(岸見一郎『100分de名著 三木清 人生論ノート』)

私は、仕事一筋の父の姿が目に浮かびました。認知症の祖母の介護にも一生懸命で、体に不調があっても弱音を吐かない人です。家族のため、社会のために尽くしてきた人は、本当に素晴らしい人だと思います。だからこそ、自己犠牲ではなく、どうかその人自身に幸せになってもらいたい、と思います。

会社のためにサービス残業、休日出勤、有給休暇の未消化、そして過労といった社会問題が無くならないのは、自己を犠牲にしてでも尽くすことはよいことだ、という前提が、今も変わっていないからかもしれません。自己犠牲ではなく、自分が幸福だから、人にも優しくなれる社会になっていってほしいと願っています。

自分がまず幸福であること。言葉でいうのはたやすいですが、現実には難しいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。そこで幸福とは何か、三木の哲学を聞いてみましょう。

「手に入れた成功の数=幸福」という思い込み

幸福は何かと聞かれたとき、ふつう、私たちが思い浮かべるのは、安心できるくらいの貯金、結婚、子供、マイホーム、できることなら、尊敬される地位、歴史に残る名誉・・・大体こんな感じではないでしょうか。私もそうでした。いわゆる「成功」と言われるものが手に入れば、きっと幸せだろうと思います。

ところが『人生論ノート』には、このように書かれています。

「成功は量的なもの」「幸福は質的なもの」
(三木清『人生論ノート』)

「成功=幸福」であり、手に入れた成功の数が多いほど幸せだと思っていましたが、「成功=幸福」とは限らないことを、三木は指摘しています。
もし成功が幸せならば、成功を手に入れるまでは幸せにはなれない、ということになってしまいます。成功は数えられる(量的な)ものですが、幸福は数で語れない(質的な)ものとの指摘に、考えさせられました。
数えることのできる成功が幸福とは限らない実例が、こちらの記事にもくわしく書かれています。

真の幸福は、捨てられることも、捨て去ることのできないもの

では、質的な幸福とは、どんなものでしょうか。

「ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である」
「しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。」
(三木清『人生論ノート』)

真の幸福は、捨てられることも、捨て去ることのできないものだと書かれています。

お金を失ったとき、仕事を失ったとき、パートナーを失ったとき、悲しみはとても深いものです。しばらくは幸せであったことも、悲しみの種と変わってしまいます。
三木清の時代は、関東大震災や世界恐慌、第二次世界大戦もあり、失うことが多かったのでしょう。何を失おうとも、なお幸福でいられる、捨てられることも、捨て去ることもできないものこそ、真の幸福だと考えたのでしょう。

私は『人生論ノート』を読んだとき、三木清のいうような真の幸福があれば知りたい、と思いました。西洋哲学を主とした『人生論ノート』では、質的な真の幸福は何か、残念なことに、はっきりとは書かれていません。しかし、三木清は死の間際まで、親鸞研究に取り組み、次のように書いています。

東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遥かに親しみが感じられるのである。(中略)
私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。
(三木清『読書遍歴』)

そして、三木清が深い感銘を受けたとされる浄土真宗の書物『歎異抄』には、真の幸福を「無碍(むげ)の一道(いちどう)」と書かれています。「無碍の一道」については目下、私も勉強中です。

120年前に書かれた三木清の『人生論ノート』ですが、現代の私たちにも大切な幸せのヒントを示してくれる、古くて新しい哲学の本であることを再発見しました。

この記事を書いた人

ライター:月見 草

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