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『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフは救われるのか(最終回)

こんにちは、齋藤勇磨です。

ロシアの文豪ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』を取り上げた、シリーズ最終回は、スメルジャコフについてです。

古典主義時代の交響曲を意識していたドストエフスキーは、本作を、全4部で構成することに強いこだわりを持っていました。

このシリーズも、オマージュの意味を込め、全4回で締めくくりたいと思います。

第1回は表の主人公、アリョーシャ(三男)の目線から人生の目的について。

第2回は父フョードルと対立する長兄、ドミートリーを取り上げ、欲望について。

第3回は次兄、無神論者イワンの語る「大審問官」について語ってきました。

最終回は、この作品のキーマンとも言えるスメルジャコフが、時代を超えて私たちに投げかける問いを取り上げます。

★『カラマーゾフの兄弟』のあらすじなどを知りたい方は、第1回からごらんください。

スメルジャコフの出自

スメルジャコフは、カラマーゾフ家の屋敷に仕える料理人です。

敷地内に建つ召使い用の離れに、育ての親・グリゴーリー夫妻と一緒に住んでいます。

24,5歳の、「恐ろしく人付き合いの悪い無口な男」でした。

町の人からは、フョードルの私生児と噂されています。

カラマーゾフの兄弟は実は4人で、スメルジャコフは隠れた4人目の兄弟ということになります。

いわば、彼はすでに述べてきた3人と、腹違いの兄弟の関係にあるのです。

スメルジャコフは、「人間誰しも自ら望んで生まれてきたわけではない」ことを体現したような出生でした。

母が白痴の乞食女であるスメルジャコフは、卑しい出自のために周りから蔑まれます。

同じ兄弟たちがチヤホヤされ、莫大な遺産を受け取る権利を持っていることに、怨みを抱いていたのです。

絶望を漂わせるスメルジャコフ

次兄イワンは、「もし永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しない」し、「すべては許される」と論じました。

努力して善く生きることは無意味だ、という「ニヒリズム」です。

スメルジャコフは、この頭脳明晰なイワンから、強い影響を受けています。

父フョードルを憎むイワンの心情を忖度し、「陰の実行部隊」として、ついにフョードル殺しに動くのです。

スメルジャコフは、傲慢で、全ての人を見下しているようなところがあり、鬱屈した感情で、「いっさいの恩を感じることなく、世の中を隅っこからうかがうような人嫌いの少年に成長」しました。

これまでの半生とも相まって、命というものの大切さが分かりません。

だから、猫を縛り首にして、そのあと葬式をするのが大好きな、動物虐待の傾向を持っていたのです。

まるで、ニュースでよく報道される、無差別殺人事件を引き起こす青年の、幼少期を描いたようなリアリティのある人物です。

スメルジャコフは極端な潔癖症の人間として描かれており、この感覚が、フョードルのような醜いものは消してしまえという考えにつながる、「父親殺し」の物語の伏線になっています。

自分の命も大切に思えないから、彼は、最終的に首を吊って死んでしまうのです。

なぜ命が尊いのか

人命軽視を象徴する事件がつづいています。

その根底には、「誰からも必要とされていない人生」「生まれてこなければよかった」「早く死にたい」という、存在の無意味感、深いむなしさがあるのではないでしょうか。

自分の命の大切さを知らねば、他人の命も尊重できません。

「死んでもいいじゃん」の無知が、「殺してもいいじゃん」の暴論に、すり替わっていきます。

戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないでしょうか。

たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるでしょう。

「人生に目的はあるのか、ないのか」「生きる意味は何なのか」。人は、今も、この深い闇の中にあります。

スメルジャコフは、生きる意味に無知な私たちの心を映す「鏡」でしょう。

親殺しの大罪~スメルジャコフとは誰か

大恩ある親を殺すのは、言うまでもなく大罪です。

仏教では、大恩ある親を殺せば「五逆罪」という大変恐ろしい罪になると説かれます。

殺すというと、金属バットで殴ったり、ナイフで刺したりを想像し、そんなことを自分はしない、と思うかもしれません。

しかし仏教では、「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」といい、体でやるよりも、心で思う罪は、もっと重いと教えられるのです。

果たしてこれを、他人事として片づけられるでしょうか。

NHKのあるドキュメンタリー番組では、介護問題をテーマに、介護の切実な現実をリポートしました。

認知症になった母親と同居し、11年にわたって介護を続けている50代の男性は、当初、母親の介護を妻に任せていたが離婚。

一人で介護をすることになり、勤めていた不動産会社を退職して、今は母親の年金で暮らしています。

「いちばんつらいのは自由がないこと」「手足を鎖につながれた牢獄にいるようだ」と介護の苦衷を漏らす。

5年前、母親が脳梗塞で倒れた時、倒れている母親を前にして呆然と眺めていたといいます。

「このまま放置して、おふくろがいなくなれば介護が終わる。やっと自由になれる……」

そんな心が去来したことを、救急車を呼ぶのをためらった自分を強く後悔しながら告白していました。

四六時中、自分のことを大切に思ってくれている両親に、自分はどれほど心をかけ、大事に思っているか。

親を煩わしく思って、ないがしろにしてはいないか。反省させられる内容でした。

親殺しの大罪を造っているのは、誰か。

スメルジャコフは自分ではない、と言い切れる人が、果たして、いるのでしょうか。

『カラマーゾフの兄弟』が突きつける問いは、現代にこそ重さを増しているように思えてなりません。

『カラマーゾフの兄弟』と『歎異抄』

『カラマーゾフの兄弟』の愛読者だったカミュは、人間の奥底には、生きる意味を「死に物狂い」で知りたがる願望が、激しく鳴り響いている、と言いました。

作品全体からは、なぜ命は尊いのか、と問う、叫びが聞こえてきます。

スメルジャコフは、その存在そのものが、命の意味を問うているように感じるのです。

どうしても生きる目的を知りたい、いや知らなかったら生きていけないのが人間です。

全ての人間は、罪を造らずしては生きていけない。なのに、生きる価値があるのだろうか。

私は、その問いに答えているものこそ、日本の古典『歎異抄』だと思うのです。

親鸞聖人の没後、鎌倉時代後期に書かれたという『歎異抄』の作者は、親鸞聖人のお弟子・唯円房だといわれています。

「異なるを歎く」の書名の通り、親鸞聖人の教えが正しく伝わることを願って書かれた『歎異抄』は、哲学者・思想家・文学者をはじめ、今も多くの人々に読み継がれています。

作家の五木寛之氏は「親鸞は人間の抱えている罪や悪を、そしてその中でどう生きるかをドストエフスキーよりも千年も前にとことん追求した人」だと語りました。

彼の書いた『歎異抄の謎』の最初の章のタイトルは、「ドストエフスキーと親鸞」です。

五木氏は、ドストエフスキーは、社会と人間の深い闇を凝視した最初の小説家で、魂のよりどころを持たない人間の魂の恐慌をたじろぐことなく描き出し、人間の心の闇の暗い海へ、果敢にのり出した魂の冒険者だと紹介します。

さらに親鸞聖人について、心の闇を徹底的に見つめた宗教者だと紹介しました。

「親鸞は人が心にいだく闇をしっかりとみつめました。(中略)そして、その上で、その深い闇をきらりと照らしだす光を求めます」(歎異抄の謎)

そして、その教えが刻まれた『歎異抄』との出遇いを、「一生を左右する機会になる」と五木氏は勧めています。

『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします」と記されています。

煩悩の激しい、最も罪の重い極悪人の救われる道が、示されているのです。

スメルジャコフのごとき人間が、救われるとしたら、この道しかありません。

ドストエフスキーが、『歎異抄』の教えに触れていたら、どんなにこそ、随喜したのではないでしょうか。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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