【相対主義とソクラテス】早稲田美桜の世界(三月十三日)
龍一郎の癌も、婚約破棄も、赤鬼は、すべて吾輩のせいだと思っていた驚くべき事実が判明した。まったく理解しがたいが、まずはその現実を受け止めよう。
やっかいなのは、面会謝絶を通告されたことだ。ここに、新たな問題が浮上した。龍一郎の前で修羅場を演じたくはないし……。
いつしか 龍一郎の言葉が耳の奥底でリフレインされていた。
《そっちの世界には、まだ希望があるのか?》
改めて絶望という看板をひっぺがし、希望の扉を渾身込めて開く決意をした。
アランの『幸福論』の一節を心に浮かべる。
「愛する人たちのために出来る最善は、自分が幸福になることである。このことに人はあまり気づいていない」
じいじが言ったとおりだ。〝 幸せの花を知らないと、大切な人に幸せの花を渡せない〟
自分を激励し、あの地図を取り出す。
じいじはハッキリと地図を描いた。それは一つの答えを示しているといえる。
しかし現代は、相対主義のウケがいい。真実はいくつもあって、解釈は一人ひとり違っていい、という考え方だ。
確かに、一つに固執せずニュートラルな位置に立つことが大事な場面が多い。
しかし、これには向き不向きがある。つまり相対主義はあくまで、平和な状態で、趣味や生き甲斐レベルには向いているが、ここ一番、重要な選択が迫られた時には向かない。
例えば、ビルが火事になったとする。この場合、非常口の正しい方角をハッキリと指し示してもらわねばならぬ。そんな時に「めいめい好きなところへ行けばいいですから」なんて言うのは愚の骨頂。結局、「どれでもいい」は、「どれでもない」のだ。
相対主義の現代は、ソクラテス以前のギリシャに似ている。当時は何の答えもない空論ばかりを振り回す相対主義者が蔓延していた。そこにソクラテスが現れたのだ。彼は相対主義者ではなかった。一つの真理を徹底して求めた。世界の四大聖人の一人はそういう者だった。人類は二千五百年かけてグルリと一周し、スタートに戻っただけなのだろうか?
少なくとも、今、龍一郎と吾輩に必要なものは悠長な相対主義ではない。一つの答えを必要としているのだ。だから、今すべきことは、哲学全般の理解ではなく、「生死を越えた幸せ」、ニーチェ殿の言葉でいえば「死に対して自由な心」にしぼって哲学を検証することだ。いわゆる「日常の幸福論」ではなく、「人生の幸福論」を徹底研究するのだ。そうすれば、かなりの数の思想がはじかれ、より早く幸せの真理に近づける。
高速で哲学全般を「生死を越えた幸せ」のフィルタにかける。やがて、〝 じいじ〟が残した地図の大きな流れがおのずと浮かびあがってきた。
大きな流れが見えてきた吾輩は、スピードと丁寧さの相反する作業が要求される中、龍一郎に話す内容を組み立てていく。
頭が高速回転していくのが自覚できた。
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