
イギリスが生んだ史上最高の劇作家、ウィリアム・シェイクスピアの4大悲劇の一つ『マクベス』の主人公が、絶望の淵で発する有名な台詞です。
物語は、将軍マクベスの姿を通して、野心という名の魔物に心を食い尽くされ、破滅へと突き進む人間の姿を描き出します。
400年以上前に書かれたこの戯曲が、なぜ今なお私たちの心を揺さぶり続けるのでしょう。
それは、マクベスの内に渦巻く欲望や怒り、嫉妬といった感情が、現代に生きる私たちと決して無関係ではないからです。
現代社会において、マクベスの苦悩はより一層、私たちの心に深く突き刺さるのかもしれません。
『マクベス』のあらすじ|魔女のささやきと血に染まる王冠
スコットランドの将軍マクベスは、戦友バンクォーと共に、荒野で3人の魔女から「いずれ王になる」と予言されます。
その言葉は、彼の心にどす黒い野心の火を灯しました。
妻に背中を押されたマクベスは、尊敬するダンカン王を暗殺し、王位を奪います。
しかし、王座で彼を待っていたのは、安らぎではなく、終わりのない恐怖と疑心暗鬼でした。
罪の発覚を恐れ、さらには「バンクォーの子孫が王になる」という予言に脅かされた彼は、ついに親友バンクォーの殺害までも実行します。
次々と罪を重ね、孤独と恐怖に苛まれたマクベスは、再び魔女のもとを訪れます。
「女から生まれた者には倒されない」「バーナムの森が動かぬ限り安泰だ」という新たな予言を得て、自分が滅ぼされることはないと過信するのですが……。
果たして、破滅へとひた走る彼の運命は、どのような結末を迎えるのでしょうか。
マクベスを蝕んだ「三毒の煩悩」
マクベスの悲劇の源は、仏教で説かれる「煩悩」にあります。
「煩悩」は、煩わせ悩ませるものをいい、一人に108あります。
大晦日に除夜の鐘を108回突くのは、この煩悩の数に由来しているのです。
中でも特に恐ろしく、私たちを生涯苦しめるのが「三毒」と呼ばれる「貪欲・瞋恚・愚痴」の3つの煩悩です。
『マクベス』の物語には、この三毒が人間を破滅させる様が見事に描かれています。
1つ目は、「貪欲(とんよく)」です。
これは、「欲しい、欲しい」と求める欲望の心です。
マクベスを破滅へと駆り立てたのは、まさしく「王になりたい」という強烈な「名誉欲」でした。
魔女の予言が、彼の心の奥底に眠っていた欲望に火をつけたのです。
王位を手に入れても彼の欲望は満たされることなく、その地位を永遠のものにしようと、さらなる血を求めていきました。
一方で、その罪の意識に苛まれていくのです。
2つ目は、「瞋恚(しんに)」です。
これは、自分の欲望が妨げられた時に噴き上がる、怒りの心です。
王位を手にしたマクベスは、次に「その地位を永遠に我が物としたい」と望みます。
しかし、その欲望の前に立ちはだかったのが、「バンクォーの子孫が王になる」という予言でした。
思い通りにならないことへの激しい怒りは、かつての親友バンクォーへと向けられ、ついに殺害という凶行に至ります。
3つ目は、「愚痴(ぐち)」です。
これは、真理が分からず、人を恨み妬む、愚かな心をいいます。
マクベスは、自分にはない人望を持ち、その子孫が王になると予言されたバンクォーを妬みました。
この嫉妬心に加え、「因果応報」「自業自得」という道理に暗かった愚かさが、彼の破滅を決定的なものとします。
これら三毒の根底にあるのが、自分さえよければいい、自分だけが得をしたいという「我利我利(がりがり)」の本性です。
マクベスの全ての行動は、この我利我利の心から噴き出していたのです。
さらにマクベスは、魔女の口車に乗せられ、まんまと苦しみの輪に陥っていきました。
「我利我利の煩悩(惑)」で「悪い行い(業)」をし、因果の道理に従って「苦しむ(苦)」。これを「惑業苦」といいます。
私たちには煩悩しかありませんから、「惑業苦、惑業苦」と、無限に繰り返していくのです。
最初は小さな惑いであったのが、巡り巡ってさらに大きな惑いを生み、次の悪業を造る。
車輪が回るように、惑・業・苦を繰り返して、苦しみがどんどん深まっていく。
一度、惑・業・苦の輪が回り始めると、なかなか抜け出すことはできません。
あなたの中にもマクベスはいる
『マクベス』が時代を超えて私たちの心を捉えるのは、彼を突き動かした「三毒の煩悩」が、現代を生きる私たちの悩みと寸分違わないからです。
マクベスが抱いた貪欲は、現代の私たちの「承認欲求」にも強く現れているのではないでしょうか。
SNSの「いいね」の数に一喜一憂し、フォロワー数で自分の価値を測ってしまう。
少しでも他人より優位に立ちたい、認められたいという欲望が、私たちを常に駆り立てています。
親友にまで刃を向けたマクベスの瞋恚も、決して他人事ではありません。
自分の思い通りにならない相手への不満が、ネット上での誹謗中傷や、家庭内での対立、時にはストーカー殺人のような危険な行動にまで発展します。
自分より恵まれた存在を妬む愚痴の心も、私たちの日常に潜んでいます。
友人や同僚の成功を素直に喜べず、SNSに投稿された「幸せそうな写真」を見ては嫉妬や劣等感に苛まれるのです。
これらの欲望や怒り、嫉妬の根底にあるのは、「自分さえよければいい」という「我利我利」の本性です。
「自分だけが認められたい」「自分の思い通りにしたい」「自分だけが幸せでありたい」という心が、私たちを苦しめているのです。
また、将来への漠然とした不安から、占いや怪しげな儲け話に救いを求め、かえって財産を失ってしまう事件も後を絶ちません。
これも、欲という「惑」につけ込まれ、詐欺商法に手を出す「業」によって、さらに「苦」しむという、現代の惑業苦の姿と言えるでしょう。
マクベスは、私たちと何ら変わりのない人間でした。
一つのきっかけで煩悩の歯車が狂い出し、後戻りできなくなったのです。
『マクベス』は、私たち一人一人の心の中に潜む三毒の煩悩と、その根にある我利我利の本性の恐ろしさを映し出す、誠実な鏡なのです。
煩悩あるまま絶対の幸福に
マクベスの悲劇は、恐ろしい三毒の煩悩を、人間の力でコントロールすることがいかに困難であるかを物語っています。
では、煩悩の塊である私たちは、どうすればこの苦しみから逃れ、本当の幸福を得ることができるのでしょうか。
その答えを、時代を超えて示しているのが、親鸞聖人の教えを記した『歎異抄』です。
『歎異抄』は、煩悩をなくすことを説きません。
むしろ、私たち人間の真実の姿を「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊)」であると見つめ、そのどうしようもない私たちを、そのまま救うという驚くべき道を示しています。
その救いを、『歎異抄』では「摂取不捨の利益(せっしゅふしゃのりやく)」と教えられています。
「摂取不捨」とは、「ガチッと摂め取られ、永遠に捨てられない」こと。「利益」とは幸福のことです。
この世で何があっても決して崩れることのない、絶対の幸福を言うのです。
この絶対の幸福になった人は、心にどれだけ欲望や怒り、嫉妬の煩悩が逆巻いても、それが幸福の妨げになることはありません。
一切のさわりがさわりとならない世界ですから、『歎異抄』にはまた、「無碍の一道(むげのいちどう)」とも説かれているのです。
『マクベス』が描き出す人間のどうしようもない苦悩。
その苦悩が深ければ深いほど、『歎異抄』が示す救いの光は、より一層力強く、私たちを照らしてくれるのです。
煩悩をなくすのではなく、煩悩あるがままで、揺るぎなき人生の醍醐味を味わう道が、ここに示されています。
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