幸せとは

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【教授たち】田中進一の世界(三月十二日)『フライザイン~死に対して自由な心を求めた僕と彼女と妹の物語』

【教授たち】田中進一の世界(三月十二日)

 僕は何冊か、自殺についての本を買ってきた。特にリストカットや大量に薬を飲むこと(オーバードーズと言うらしい)を繰り返す若者についてのものを。

自殺願望者のバイブルといわれる本も目を通した。自殺未遂を繰り返すその女性は、物凄くディープな記述を繰り替えすのだけれど、その語り口は、妙に明るくユニークで、僕の十倍はテンションが高かった。自殺願望の人は、鬱々として暗いに違いないというイメージはあっさり覆された。

 本を閉じ、家を出る。

 僕は、キャンパスに向かいながら考えた、どうやって哲学科の教授と面識を持とうかと。切り出し方さえも見当がつかない。いきなり「生きる意味を教えてください」なんて聞こうものならどう思われるだろう。いや、哲学やっている人なら意外にOKかな? 

 いつしか、僕の足元には一匹の野良猫がまとわりついていた。なぜか僕は、やたらと猫に人気がある。日によって大分違うのだけれど基本的に猫は自然と僕にすりよってくる。子供の頃からずっとそうだ。理由は分からない。淳子さんは猫が苦手なので家では飼えないのだけれど。

 今日の猫は、よくあるクリームとオレンジと黒のモザイク柄をしている、いわゆる三毛猫。しっぽは丸くて短い。この猫をアメリカでは、ジャパニーズボブテイルと呼び、オリエンタルな雰囲気が人気らしい。この手の丸い尾の野良猫を僕はいつも「ボブティ」と呼んだ。

 大学についた僕は、そんな見知らぬ猫に付き添われながら、哲学科の教授について調べ始めた。意外に簡単に教授たちの名前も分かったし、部屋も知ることが出来た。でも実際に会う段となると決心がつかず、とりあえず午前中はパスした。猫と分け合いながらベンチで昼食を食べる。

 猫と人間との付き合いは新石器時代から続いているという。長い舌を盛んに動かし、口の周りを舐めまわしたり、舐めた手で顔をこする愛らしいしぐさを見ていると、それくらい歴史があって当然だと思った。
 猫はとても幸せそうだった。

 笑っている箇所は目だけのように思えるのだけど、顔中使って笑う人間より嬉しそうに見えるのはなぜだろう?

 そんなことを考えているうちに緊張が和らいでいった僕は、とりあえず一番若い教授に会おうという気持ちになっていた。
 昼過ぎには心の準備が整い、教授の部屋へ向かって歩き始めた。日ごろ入ることがない校舎の廊下をつたって部屋の前に着く。いかめしい扉がそこにはあった。心臓が早鐘を打つように高鳴ってくる。

《これは、妹のためであり、自分のためでもあるんだ!》

 そう必死に言い聞かせたが、ドアをノックする決意が固まらない。それはそうだ、どう切り出すかのアイディアさえまだ浮かんでいないのだから。

 じっとりと腋の下から冷や汗が出てきた。しかし、とにかくここはノックするしかないのだ! そう思いつつも、自分で自分がどうにもならない。ボブティは首をかしげて僕を見ている。僕は頭を掻き毟ってから、かがんで猫の頭を軽くなでた。

「ボブティ、ここでしばらく待ってろよ」

 小さな声で伝え、ボブティとの握手を交わした。肉球が僕に勇気を与えてくれる。大きく息を吸い込む。そして、僕は拒否するもう一人の僕を振り切って、脳に《右のこぶしにノックさせろ!》と命令した。威厳ある木のドアを〝 右のこぶし〟が叩き「失礼します」と〝 口〟が言う。
 すると、あっさり「はい」と中から返事が聞こえてきた。
 腹を据え、もう一度、失礼しますといいながらおそるおそるドアを開けると、不思議そうな顔をして僕を見ている教授が座っていた。妙に長い赤のネクタイをしていた。

 突然の訪問で申し訳ありませんとか、お時間大丈夫でしょうかとか、一応、人間社会のルールと思しきことを言ってから、非常事態に追い込まれた僕は(自分で追い込んだわけだけれど)、懸命に頭を回転させ、とっさに思いついた言葉を吐き出した。

「あ、あの、実は、先生、えと、ちょ、ちょっと唐突に思われるかも知れませんが、えと、哲学では、えと、人生の、その、人生、人生の意味について、どのように言わ、言われてるでしょうか。今度レポートを、ええ、レポートを書こうと思ってまして、ええ、あの、それで、なにかお勧めの本や、そのことについて書かれている哲学書を、えっと、教えてもらいたいなと思ってですね、それで、それでここに来たのですが」
 教授は「ああ、そうですか」といった感じで、意外にもすんなり〝何々という哲学者の何々という本なんかいいのではないかな〟と数冊、教えてくれた。

 聞き慣れないカタカナの名前と、難しい漢字をたくさん使った本のタイトルを必死にメモする。汗が顔の側面を流れた。さすが哲学科の教授は難しい本を読んでいるなと当たり前のことに感心しつつ、一刻も早くこの部屋を出たいという気持ちが疼く。メモを取り終えると僕はそそくさと「あ、有難うございました」とだけ言い、手榴弾を投げた兵士さながらの気持ちで部屋から脱出しようとした。ところが、この長い赤ネクタイの教授は僕を呼び止めたのだ。

「ああ、ちょっと君ね、これだけは言っておこう」
「はい?」
「生きる意味を考えるのはとても大事だけど、答えを求めてはいけないよ」
「えっ?」
「これは答えを出してはならない問題なんだ。生涯生きる意味を探究しつづける、それが哲学だからね」
「はあ」

 僕は、そのまま、なんとも中途半端な状態で部屋を出るはめになった。
 廊下に出てドアを閉めると同時に、緊張を「ふう」と息に換えて吐き出す。ボブティはきちんと足をそろえて待っていてくれた。


頭をなでてやると、目を細め、グルグルとノドを鳴らす。なぜ猫はノドを鳴らすのだろうと考えた時期もあったけれど、ライオンだってノドを鳴らすと知ってからは、《なら、猫がノドをならして当然》と妙に納得し、以来、その疑問は出なくなった。

「なあ、お前の応援のおかげで教授からオススメの哲学書を聞き出せたぞ。初陣は成功だ」
 ボブティに語りかけて、今度は背中をなでてやった。ボブティは、気持ちよさそうに、鼻をなめながらノドを鳴らし続け、短い尻尾をピコンと立てた。
 もう片方の手で、先ほど必死に書いたメモを取り出す。汚い自分の字を見ていると、最後の教授の言葉が思い出されてきた。

「生きる意味を考えるのはとても大事だけど、答えを求めてはいけないよ」

《うーん、なら何の為に考えるんだろう》
 どうも釈然としなかった。

 家に帰るとスグに父親の書斎に入り、教授に教えてもらった本を探した。見事に揃っていたのはちょっとした感動だった。ただ、ニーチェの『ツァラトゥストラ』という本は、なぜか上巻だけしかなかった。下巻は図書館で借りるとしよう。

 自分でも理解出来るだろうかと一冊を選んでこわごわ読み始めると、一ページ目から、いや一行目から理解出来ないことに愕然とする。そもそも僕は、教科書以外まともに本を読み通したことがない。父親が勧めてくれた谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』以外は。

 あざけるような妹の言葉が蘇る。
《では、見つけてもらいましょう〝生きる意味〟とやらを》
 改めて大変な約束をしてしまったことが分かった。
 暗黒のとばりに全身がスッポリ包まれた気持ちになった。

 さて、どうする?

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