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最近、「退屈だな」「何だかつまらないな」と感じることはありませんか。
毎日が充実していないわけじゃない、楽しいことがないわけじゃない、友達がいないわけじゃない、それなのに「なんとなく退屈だ」。こんな思いを人生で一度も抱いたことのない人なんていないでしょう。
気晴らししようにもどうも気分が晴れない。人間はなぜ「退屈」するのか、「退屈」はどこから生まれるのか、「退屈」から逃れる方法はあるのでしょうか?
行動心理コンサルタントの鶴田豊和さんの『「つまらない」がなくなる本』では、退屈の逃避行動としての、スマホやテレビ、パソコン、ゲーム、インターネットサーフィンなどの瞬間的な快楽や、お酒やドラック、睡眠などでは、「つまらない」から抜け出せないといいます。
とりあえずスマホを開いてゲームやSNSをやり始めると、瞬間的に満足します。しかし、少しすると再び新しい投稿やニュースがないのかと、新たな刺激を求めて、その次を求めます。
そして一時的に満足してまた飽きると、その次という形で、また新しい刺激を求めるようになるというのを繰り返します。この現象を心理学の専門用語では「順化」といいます。ある刺激が長時間繰り返されると、その刺激に対して鈍感になり、徐々に反応が見られなくなっていく現象です。いわゆる慣れというもので、誰にでも起こる自然な現象ですね。
この「つまらない」の悪循環を繰り返していくと、やがて「慢性的な退屈」にだんだんシフトしていくそうです。
退屈な人には「趣味や生きがい」をすすめる人が多いと思います。好きなことに没頭している時は、退屈な日常を忘れて幸せを感じるものです。
世の中には、いろいろな趣味があります。鉄道ファンといっても、列車に乗ることが好きな人は「乗り鉄」、列車の撮影が好きな人は「撮り鉄」と呼ばれるとか。コレクションが趣味という人もあります。ワニやヘビを飼っている人、大人になってダンスや陶芸にハマったという方もあるかもしれません。
「人間は考える葦である」で有名なパスカルは、「ウサギ狩りにいく人はウサギが欲しいのではない」といいます。何が欲しいわけではないけれど、何かが足りない。どこまでも続く退屈に耐えられないから気晴らしを求めている私たちの姿を、うまくとらえています。
趣味や習い事が、人生を豊かなものにするのは確かでしょう。しかし道楽や趣味は、多くの場合、もしかしたら大半の場合、根本的な幸福の源ではなくて、退屈な現実からの逃避になっているのではないでしょうか。
哲学者バートランド・ラッセルは、「人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になる」と主張しました。
過去、人間は常に生存の危機とともにありました。戦争、飢餓、病気、差別など、その生命を全うできない危険性がある環境においては、動物的な生存本能が発揮されやすく、生きることそのものに全力で取り組まざるを得ませんでした。しかし、社会が豊かになり、命の危険がないことが当たり前になってくると、「生きること」それ自体に喜びを見つけることは難しくなります。
社会が豊かということは、人が人生を賭して埋めるべき大きな「穴」がない状態といえるかもしれません。社会や国をより良くすることに自分の人生をささげようと思えるような、「大義」が見つかりにくくなるのです。
定年を迎え「第二の人生、趣味に生きよう」と呼びかける声もあります。一見、理想的な生き方に思えますが、「何十年も一つや二つの趣味に没頭できる人が、そんなにあるだろうか」と違和感を訴える人もいます。
やがて”何にもなれずに終わるのかな”との思いが、頭をもたげてくるようです。
「なんとなく退屈だ」。これはOLや学生の感想でもなく、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが「退屈の第3形式」として提示した、最も深い「退屈」の形態です。哲学者の國分功一郎さんは、『暇と退屈の倫理学』の中で、『形而上学の根本諸概念』講義において展開されているハイデガーの退屈論を「暇と退屈」の問題にたいする優れた哲学的思考として紹介しています。ハイデガーは退屈の形式を大きく以下の3つに分けています。
この3つの退屈形式に関してハイデガーの挙げている具体的な事例が身近です。
第1形式では「殺風景な田舎の駅舎で列車を4時間待っている」という、誰でも経験したことのある手持ち無沙汰の感覚が例として示されます。私たちはイライラして、なんでもよいから暇つぶしになるものを探します。並木道の木の本数を数えたり、地面に座って絵を書いたり、といったことを始めるのです。気晴らしで駅の構内でスマホを触っているのは、このような気持ちのときでしょう。
第2形式では友人宅でのパーティでの例を挙げています。
仕事を中断して人の家に客として招待され、パーティーで食事をし、ワインを楽しみ、談笑し、深夜になって帰宅する。出かける前に中断した仕事の前に座ると、ふと、「楽しかったけれど、あれはやっぱり本当は退屈していたのだ」という思いが頭に浮かびます。
この例では、楽しかったパーティーそのものが、退屈になっているという例です。現代で言えば、忙しく仕事に打ち込んでいる、趣味に多忙なはずなのに、それをつまらなく感じる、ということで、第1形式の退屈よりも深い退屈です。
1つ目と2つ目の退屈の特徴は、「その場限りであること」で次の3つの場合に発生するといいます。
これらの退屈を解消するためには、気晴らしを楽しむためのある種の「訓練」が必要になるでしょう。例えば、退屈の第1形式のように、駅舎で列車を待つ人に関しては、豊かな暇つぶしの仕方、あるいは暇を暇として楽しむ仕方を身につけることによって、気晴らしが可能でしょう。退屈の第2形式で示しているような、パーティーの席で(気晴らしをしつつも)退屈してしまう人に関しては、その場の料理を楽しみ、葉巻の香りや味わいを楽しみ、友人たちとの会話を豊かなものにするための、ある種の「訓練」や「知識」を身につけてみればどうだろうか、と國分さんは提案しています。
さて、ハイデガーにとってこの3つの形式のうちで最も深いのは、第3形式の退屈です。第1形式の退屈も第2形式の退屈も、第3形式 の退屈:「なんとなく退屈だ」という声を隠すために行なわれているといいます。哲学者の西尾幹二さんもこのことに触れています。
ちなみに、実は、退屈は仏教から出た言葉です。もともとは、退屈とは、「仏道修行を続ける気力がなくなり、精進しなくなること」を指します。
仏法を求める気力がなくなると、しだいに尻込みして、気持ちが「退」き、「屈」するようになる。
尻込みするようになると、仏法を求めない時間、ぼんやりとする時間が生まれる。
ぼんやりとする時間が生まれると「あー暇だ」という思いが生まれるのです。
向かうべき方角を見失うことが、退屈を生む原因と言えるかもしれません。
趣味や生きがいは、楽しい一時が終われば、退屈でつまらない現実に逆戻りです。飲んだ酒に酔っている間だけ、借金を忘れて気持ちよくなっているのと同じでしょう。そのほろ酔い気分も次第に味わえなくなってくる。だれもが気づいているのではないでしょうか。
それでも「酒なくて何の人生か。酒飲まぬバカ」と言う人もある。一方で、「こんな面白い人生になんで酒やタバコが必要なんだ」と笑う人もいる。それは真の生きる目的を知らされた人です。生きる目的を達成すれば、「何と生きるとは素晴らしいことか!」と、人生を丸ごと肯定できるのです。
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