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オードリー・ヘップバーンの晩年|色あせない内面の美

こんにちは、齋藤勇磨です。

吸い込まれるような大きな瞳、可憐な笑顔、そして時代を経ても色あせない美しさ……。

20世紀を代表する女優、オードリー・ヘップバーンは、今もなお世界中で愛され続けています。

彼女が主演した『ローマの休日』(1953年)で、自由奔放なアン王女に心を奪われ、『ティファニーで朝食を』(1961年)で、宝石店ティファニーに憧れる主人公、ホリー・ゴライトリーの洗練されたファッションに憧れた方も多いのではないでしょうか。

オードリーは、その卓越した演技力で数々の賞を受賞しました。

1954年には、『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ賞主演女優賞(ドラマ部門)、英国アカデミー賞最優秀英国女優賞を受賞しています。

しかし、誰もが知る銀幕のヒロインの、晩年の姿を知る人はそう多くありません。

オードリーは、その人生の最後の5年間を、ユニセフ(国連児童基金)の特別親善大使として、恵まれない子供たちへの支援活動に捧げました。

彼女は、映画界の歴史に名を刻むだけでなく、その人間性においても人々を魅了し続けたのです。

戦争と飢餓|過酷な少女時代を生き抜く

「もし人々が支援していないのだとしたら、そうしたくないからではなく、支援が必要だということを知らないからだと思います」*1。

そう語るオードリーの言葉には、彼女自身の壮絶な体験が深く刻まれています。

1929年、ベルギーで生まれたオードリーは、幼少期をナチス・ドイツ占領下のオランダで過ごしました。

第二次世界大戦の戦火は、彼女の人生に暗い影を落とします。

一家は常に食糧不足に悩まされ、栄養失調に陥ったオードリーは、生きるためにあらゆるものを口にしました。

「口に入るものならチョコレートでもパンでも、何でもよかったのです。爪まで噛んでいました」*2

と、当時の過酷な状況を振り返っています。

1944年9月、連合国軍は「マーケット・ガーデン作戦」を決行します。

これは、オランダの主要な橋を空挺部隊で一斉に占領し、ドイツ国内への進撃路を確保しようとした大規模な作戦でした。

しかし、ドイツ軍の激しい抵抗により、作戦は失敗に終わります。

この作戦の失敗後、オランダは「飢餓の冬」と呼ばれる深刻な食糧難に見舞われました。

人々はチューリップの球根を食べることを余儀なくされ、オードリーも例外ではありませんでした。

この経験は、彼女の心に深い傷跡を残し、後の慈善活動への強い動機となりました。

自由も食料もなく、未来への希望さえ失いかけていた彼女を救ったのが、ユニセフの前身である連合国救済復興機関(UNRRA)でした。

UNRRAは、戦争で荒廃した国々に対し、食料、医薬品、衣料品などの緊急援助を提供しました。

オードリーは、この支援によって生きる希望を取り戻し、戦後の復興を支える力となりました。

1988年、ユニセフ親善大使就任時の挨拶で、オードリーはこの経験に触れ、こう語っています。

「私は、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのかハッキリ証言できます。なぜなら、私自身が第二次世界大戦の直後に食糧や医療援助を受けた子どもの一人だったのですから」*3

ハリウッドから世界へ|ひとりの人間として

ユニセフの活動資金は、すべて寄付によって賄われています。

特別親善大使といえども、年に一度支払われるわずかな手当以外は無給であり、公的な交通費や宿泊費を除き、すべて自己負担でした。

さらに、活動地域は、病気が蔓延する国や紛争地域など、常に危険と隣り合わせの場所です。

しかし、オードリーは、そのような過酷な状況にも臆することなく、積極的に活動に取り組みました。

彼女が親善大使として最初に取り組んだのは、深刻な干ばつと飢餓に見舞われていたエチオピアへの視察でした(1988年)。

エチオピアは、アフリカ大陸の北東部に位置する国です。

「飢餓に苦しむ500万以上の人々を救うために、私にできることは何だろう」。

そう自問したオードリーは、自身の知名度を最大限に活かすことを決意します。

彼女は、各国を巡って募金を呼びかける「記者会見旅行」を思い立ち、エチオピアから帰国後、すぐに自費で旅立ちました。

イギリス、カナダ、スイス、フィンランド、ドイツ、アメリカなどを回ったのです。

映画女優としての全盛期には、インタビューを避けることもあったオードリーですが、この時は違いました。

彼女は、各国で積極的にメディアの取材に応じ、飢餓に苦しむ人々の窮状を訴え、支援を呼びかけました。

その姿は、単なる有名人の慈善活動ではなく、自らの使命を全うしようとする強い意志に満ち溢れていました。

ある時、「あなたは自分の時間を犠牲にしているのではありませんか」と問われたオードリーは、毅然とこう答えました。

「犠牲というのは、したくないことのためにしたいことを諦める、ということでしょう。これは犠牲ではないのです。私が授かった贈り物です」*4。

彼女にとって、苦しむ人々に手を差し伸べることは、喜びであり、使命だったのです。

1992年、オードリーはソマリアを訪問しました。

ソマリアは、アフリカ大陸の東端、「アフリカの角」と呼ばれる地域に位置する国です。

内戦と飢餓によって荒廃したこの国で、彼女は、栄養失調で死に瀕する子どもたちを目の当たりにし、深い悲しみに打ちひしがれました。

しかし、同時に、彼女は、国際社会の無関心と、支援の遅れを痛烈に批判しました。

同年、オードリーは大腸がんと診断され、スイスの自宅で療養生活を送ることになりました。

しかし、病床にあっても、彼女の心は常に苦しむ人々とともにありました。

1993年1月20日、オードリーは家族に見守られながら、63年の生涯を閉じました。

彼女の死は、世界中に大きな悲しみをもたらしましたが、彼女が残した功績と、人々に注いだ思いは、語り継がれることでしょう。

私たちにできること|小さな一歩が世界を変える

オードリーが最も愛した詩と言われる、アメリカの作家、脚本家サム・レヴェンソンの詩の一節には、次のような言葉があります。

「大きくなったとき、きっと自分にもふたつの手があることを発見するだろう。一つの手は自分を支えるため。もうひとつの手は誰かを助けるため」*5

オードリーは、晩年、まさにこの詩を体現しようと努めました。

彼女は、女優として成功し、名声と富を手に入れましたが、それに甘んじることなく、もう一方の手を、苦しむ人々に差し伸べ続けました。

オードリー・ヘップバーンの内面の美しさ、そして、他者への深い共感と献身こそが、彼女を時代を超えた「お手本」、そして「憧れの女性像」たらしめているのではないでしょうか。

彼女の生き方は、私たちに、真の美しさとは何か、人としてどう生きるべきかを教えてくれます。

[出典]
*1~5 山口路子(著)『オードリー・ヘップバーンという生き方』 新人物往来社

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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