前回に続き、ロシアの文豪ドストエフスキーの長編小説『カラマーゾフの兄弟』が、時代や国を超え、多くの人の心を動かす理由を探ります。
★『カラマーゾフの兄弟』のあらすじなどを知りたい方は、第1回からごらんください。
ロシアの文豪・ドストエフスキーの傑作、『カラマーゾフの兄弟』。
作品の中で、ドストエフスキーは、神の存在について考察しています。
登場する無神論者の次男イワンは、同時代のロシアのみならず、広く見聞した残虐な事実を、読者の代表である三男アリョーシャに聞かせます。
乳児や妊婦、胎児まで殺される戦争。幼児を虐待する親、少年を犬にかみ殺させる地主……。
これでもかと戦争や社会の残虐さを例に出し、信仰心あつい弟アリョーシャに問うのです。
神が在るのなら、いたいけな子どもたちへの虐待をなぜ許しているのか。
もし神がいるのなら、今この地上で苦しんでいる人々に、なぜこの地上で、今この時に、この苦しみを取り除いてはくれないのか?
無神論者のイワンの冷徹な知性は、鋭く問いかけます。
その中でもとりわけ重要で、この作品の根本を表していると言われるのが、作中劇として登場する「大審問官」という章です。
この章では、無神論者の次兄イワンが、復活のキリストと大審問官との間の想像上の対決を、三男のアリョーシャに語ります。
長い章ですので、概要のみ記しましょう。
「大審問官」あらすじ
舞台は16世紀、スペインのセヴィリア。
物語の主人公は90歳の大審問官。
「大審問官の教えを守らないもの」や「別の神を信じているもの」を、異端者として、火あぶりにしていました。
ここに、イエスらしき者が降臨する、という設定で、この2人の問答劇は展開します。
ただ、終始語るのは大審問官のみで、イエスは最後まで黙したまま。
キリスト教への絶望や怒りに満ちた話を聞いたあと、イエスは大審問官に「キス」をして、この作中劇は締めくくられます。
3つの問答
「大審問官」では、かつて悪魔とイエスとの対決で交わされたとされる、3つの問答の場面が有名です。
この中には、「人類のその後の歴史がすべてまとめられているし、また、人間の本質が現れている」とイワンは述べ、大審問官に語らせます。
大審問官は、悪魔の主張が正しかったことを、歴史は証明してきたではないか、と、イエスをなじるのです。
「自由」よりも「パン」がうれしい
悪魔がイエスに投げかけた第1の問い。
しかし、おまえは「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えた。
なぜなら、パンのために、人間から自由を奪いたくなかったからだ。
しかし、おまえの言う自由は何を約束してくれるのか。
それは、人間にとって耐えがたい重荷にしかならないではないか。
人間というのは、パンのためなら自由を放棄して、パンを与えてくれる者の奴隷になったほうがよいと考える。
自由よりも、パンこそが人間にとって価値があるのだ。
大審問官は、「人間と人間社会にとって、自由ほど堪えがたいものは、いまだかつて何一つなかった」と説きます。
こう言って、大審問官は、自由よりも、現実のパンの絶対的な価値を説きます。
人は「奇跡」を求める
悪魔の第2の問い。
なぜなら、それは人間から自由な信仰を奪い、奇跡の奴隷にすることになると考えたからだ。
しかし、これまで現実に人間を救ってきたのは、自由な信仰というようなものではない。
目に見える奇跡が信仰を支え、人間を救ってきたのだ。
なぜなら、人間はそのように創られているからだ。
人間の身体にはパンが必要であるのと同じで、人間の心には奇跡が必要なのだ。
こう言って、大審問官は、人間が心底求めている奇跡こそが必要だと語ります。
「権威」への服従を求める
最後に、悪魔の第3の問い。
悪魔を拝し、地上の王となれば、人間を権威と力で従わせることになる。
それでは、人間から選択の自由を奪うことになるとおまえは考えた。
しかし、人間にとって、自分自身で選択する自由は恐ろしく不安なもので、平安も幸せも、もたらしてくれない。
だから、人間は自分の自由を進んで捧げられる主を求める。
それは、多数者が認める者でなければならず、おのずとその権威が備わっている者でなければならない。
そういう権威こそが、人々をまとめることができ、平安を与えることができるからだ。
こう言って、大審問官は、自由な選択よりも、権威への服従こそが、人間の幸せをもたらすことを力説します。
現代に通じる、パンと奇跡と権威
大審問官の主張には、反論しがたい説得力があります。
実際のところ、これまでの人間の歴史は、石を「パン」に変えることに汲々としてきたのではないでしょうか。
つまり、あらゆるモノ(石)をカネ(パン)に変換し、豊かな生活環境を築き上げてきたのではないでしょうか。
最近では、月の土地の権利さえ、売買の対象になっています。
パンを食べるためには、カネが必要です。
カネのためならどんなことでもする、と、自由を捨ててパンの奴隷のように生きる人ばかりではないでしょうか。
奇跡も、科学が成し遂げてきた成果により、かつては奇跡だった多くのものが、今では当たり前の現実になりました。
科学はいわば、奇跡の境界線を押し上げる役目をしています。
発達した科学技術は、魔法や奇跡と、もはや見分けはつきません。
理屈は分からずとも、私たちは、テレビを見て楽しみ、スマホを手放せず、日々、楽しんでいます。
科学信仰が奇跡願望を引き継いだだけで、現代人の心の内実は、昔と少しも変わっていないのではないでしょうか。
権威を奉じることについても、現代も変わりません。
「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」と言われるように、大勢に従うほうが安心です。
自分で判断するのは面倒なので、「エライ人」の言うことに従おうとします。
判断が正しいのならば、従う相手は、人間でなくてもかまいません。
最近では、自分の就職先や結婚相手でさえ、「AIに任せたほうがうまくいく」と判断を任せる人が増えています。
ネットに存在する「見えない皇帝」の権威に従うことが推進されているようです。
現代経営学の巨匠といわれるP・F・ドラッカーも、「キリストに対して、人間は責任ある自由人たるよりも泰平な奴隷たることを好むと論じた大審問官の主張が正しい」(『産業人の未来』)と述べています。
「自由」を捨ててしまう人間の矛盾
一般に、「自由に生きたい」が、多くの人の願いだと思います。
しかし、夏目漱石は、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」(草枕)と言っています。
また、フランスの思想家・ルソーも、「人間は自由なものとして生まれたが、しかし、いたる所で鎖につながれている」と言っています。
古今東西、変わらぬ嘆きではないでしょうか。
「自由な人生」とは、自分の人生を自分で決める人生です。
そこには「自分の責任で、独りで決断しなければならない」という孤独と、「もし選択を誤ったら大変だ」という不安が付きまといます。
そこで人は、負担が重い「自由」よりも、手っ取り早い「安心」を求め、せっかくの「自由」を捨てて、みんなと同じような人生を選んでしまうのです。
自分の道を自分で決める不安に耐えるくらいなら、ヒトラーのような独裁者であれ、AIであれ、誰かに進む方向を決めてもらったほうが、余程楽なのです。
できるだけ早く、誰かに自分の人生を預けて、安心したいのが人間です。
人間は、自由に好きな道を進みたいと願いつつも、重苦しい自由はさっさと捨てて、大衆と同じ道を進んで安心したいのです。
人間の存在は、矛盾以外の何ものでもありません。
どう生きるかしか考えられない私たち
ローマの思想家・キケロは、自由とは「自分の望みどおりの生き方ができる」ことだと言いました。
では、自分の望みどおり生きている人とは、誰でしょう。
それは「自分が辿る人生の道を深く考え、さきざきまでその見通しをつけている人だけ」なのです。
自分がどこに向かっているかを深く考え、目的地をハッキリさせて、自分が本当に望んでいる道を歩んでいる人こそが、自由な人でしょう。
しかし、私たちは、どこに向かっているかを考えず、どう生きるかしか、考えてはいません。
「パン」「奇跡」「権威」は、「どうすれば長く、快適に、楽に生きられるか」の人類の営みに対応しています。
政治、経済、科学、医学、法律、倫理・道徳、芸術、スポーツ、健康、家族、お金、財産、地位、名誉、マイホーム……。
いつの時代どこの国でも、これらは、無ければ生きられない大事なものばかりです。
しかし、幾ら有っても、やがて生きられなくなるのではありませんか。
考えてみると私たちは、毎日毎日、政治をどうする、経済をどうする、健康をどうすると、”どう生きるか”一つに頭を悩ませています。
「生きる」ことを「歩く」ことに例えれば、それは、「どう歩くか」ばかり考えているのと同じではないでしょうか。
「歩く」ことは、どこかへ行く手段であって、目的ではありません。
もし、歩くために歩いている人があれば、どう歩こうと、どこにもたどり着かず、最後は歩き倒れに終わります。
だとすれば、なぜ歩くのか。
生きるのも同じです。
生きる目的が分からなければ、どう生きようと、結局、生き倒れで終わるだけです。
やがて生き倒れになるのに、なぜ生きるのか。
それは、生きている人が知らねばならない、いちばん大事な問題ですが、政治も経済も科学も医学も教えてくれない、人類の盲点です。
「大審問官」の章からは、そんな、古今東西の全人類の姿と盲点が浮かび上がってきます。
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