身代わりロボットに、自分を教え込む小学生
こんにちは、齋藤勇磨です。
絵本『ぼくのニセモノをつくるには』(ヨシタケシンスケ作)。けっこう深い内容で、私も、ついつい引き込まれた絵本です。
小学3年生のけんたくんはロボットを身代わりにして、宿題や部屋の掃除をさせることを思いつきました。
ですが、偽物とばれてはいけません。自分の特徴を教えようとして、「ぼくとは何か」を考え始めます。
けんたくんは、ロボットに自分のことを詳しく説明していきます。
まず、名前や家族のこと。
他にも、誕生日、住所、学校、身長、体重などなど。
外からみた感じや、好きなもの、嫌いなもの。
ぼくの出来ること、出来ないこと、などなど。
でも、
「ぼくは まだつくりとちゅう 毎年背が伸びているから、これからも大きくなる」
「気持ちがコロコロ変わる。色んなぼくになるけど、全部、ぼくはぼく」
そして、僕はひとりしかいない、とつながっていきます。
おばあちゃんからは、
「にんげんは ひとりひとり かたちのちがう 木のようなものらしい」と教わります。
木の種類は生まれつきだから選べないけど、
どうやって育てて飾り付けをするかは、自分で決められる。
木の大きさではなく「じぶんの木を 気にいってるかどうかが いちばん だいじらしい」。
とってもほほえましい絵本です。
「私のコピー」ができるなら、「私」の生きる意味はない?
でも、もし本当に、外見も内面もまったくそっくりな「私のコピー」が現れたら、どうなるでしょう?
自分の言うことを聞いて、面倒くさいことをなんでも代わりにしてくれるなら、楽になれるかもしれません。
でも、自分のわがままな性格もコピーされているのですから、そんなに簡単に納得してくれなさそうです。
ひょっとしたら、私の代わりに、私のやりたいことも、してしまうようになるかもしれません。
素朴ながら、哲学的な、深いテーマになってきますね。そこで、日本の哲学者・永井均さんにご登場願いましょう。
例えば、永井さんの著書『マンガは哲学する』(講談社)には、こんな話が出てきます。
漫画家・高橋葉介さんの『壜(びん)の中』という作品の考察です。
その壜から自分とそっくりの少女が出てくる。
壜から出てきた少女は、おそらくはもとの少女の記憶を含めた完全な複製体である。
ところが、もとの少女が躊躇しているあいだに、複製少女のほうがその少年とつきあいはじめてしまうのである。
少年はもちろん、その少女がもとの少女だと思い込んでいる。
もとの少女は複製体に、文字通りの意味で自分を横取りされてしまったわけである。
それ以後ずっと、少年はもちろん、少女の母親も、その事実に気づかないのであろう。
もし、周囲が誰も入れ替わりに気づかなくても、もとの少女にとっては、複製少女がどれだけよく似ていようが「私」とは別物であり、「私」の世界の登場人物の一人です。
だって、大好きな少年と恋人同士になっているのがよく似た複製少女だからといって、「私」が付き合っていることにはなりませんし、ちっともうれしくないですよね?
周囲にとっては、どちらかが残っていれば、今までと変わりませんから、極端な話、もう片方はいらない、ということになります。
しかし、「私」にとっては、それは、私の乗っ取りです。「私」が残るのか、複製少女が残るのか、天地雲泥の差といえるでしょう。
「どうせ取り柄のない私、存在価値なんてない」
私のとりかえが可能なら、よく似た私ではなく、「この私」が存在する意味は、何なのでしょうか?
もし、私の存在意義は、能力やスキルにあるのなら、同じ能力やスキルを持った人間と代替可能です。
例えば、「私の取り柄(存在意義)は、上手に英語を話せることだ」と言っている人があるとしましょう。
しかし、同程度以上の英語のスキルを持っている人が現れれば、その人に取って代わられてしまいます。
ひょっとしたら、「私には何の取り柄もない。生きている価値なんかない!」と、自殺を考える人もいるかもしれませんね。
「いやいや、能力やスキルでその人の存在意義や価値は決まらない。その人らしさ自体に意味がある」。そう励ます人もいるでしょう。
では、「その人らしさ」とは、何なのでしょうか?
おそらく、ここでいう「その人らしさ」とは、外見に加え、その人の性格や記憶、経験、言動、思考パターンなどを指していると思います。
「そんなあなたの、オッチョコチョイなところが、なんだか好きなの♡」ということもあるでしょう。
でも、もし、そんな「その人らしさ」まで、複製できるとしたら、それでも私の存在意義はあるのでしょうか。
〈私〉の複製が現実になる?
これは、科学技術の進歩によって、単なる思考実験ではなくなりつつあります。
どういうことかというと、人類よりも賢い人工知能(AI)を創り出す、「シンギュラリティ」といわれる技術的な特異点が、なんとたったの30年後 ”2045年” に訪れると予言する科学者がいるのです。
では、この2045年以降、一体どのような世界になってしまうのでしょうか。
例えば、ある科学者は、赤血球サイズのナノロボットを作って血液中にめぐらせることで、体の状態を細胞単位で修復したり、作り変えることができると言います。
また、ある科学者は、脳をデジタル化することもできるようになるだろう、と言っています。
そもそも、脳は実際に細胞の間を電気的な信号でやり取りしています。
これを機械が完全にスキャンできるようになれば、ロボットに自分の意識を移すことができるようになるかもしれません。
そうなると、自分と同じ記憶を持ち、自分と同じ体を持つ「私」のコピーが、現実のものになるかもしれません。
お釈迦様に聞く、身代わりのきかない本当の私とは?
でも、じつは仏教の教えからいうと、全然、心配いりません。本当の私は絶対に身代わりがきかないのです。
それには、本当の私とは何者かを知る必要があります。
そもそも、ここまで述べてきたように、「私」とは二つにわけられないものです。
しかし、私=肉体ならば、私はコピーできることになります。
私=記憶ならば、これまた、私はコピーできることになります。
そうなると、肉体や記憶によらない、私と、私以外を分けるものが存在しなければなりません。
仏教では、生まれる前を「過去世(前世)」、生まれてから死ぬまでを「現在世」、死んだ後を「未来世(来世)」といい、本当の「私」である生命の流れは、過去からずっと続いていて、大河に泡ができては消え、またできては消えて……とたくさんの生き死に(これを多くの生「多生」といいます)を繰り返していると説いています。
これが本当の私であり、その私が、今、生きているときにどうすれば本当の幸せになれるのかを、教えられているのです。
どれだけ科学技術が発展しても身代わりのきかない、本当の私の生きる意味こそ、AIブームの今、いちばん知っておきたいことではないでしょうか。
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