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タイパ至上主義の落とし穴|急ぐことで見失う「人生の目的」

こんにちは、齋藤勇磨です。

「タイパ」という言葉を、日常的に耳にするようになりました。

タイムパフォーマンス(時間対効果)の略語であり、費やした時間に対して、どれだけの満足度や成果を得られたかを示す指標です。

現代の私たちは、あらゆる場面でこの「タイパ」を追い求めています。

動画配信サービスで映画やドラマを視聴する際、1.5倍速や2倍速で再生するのは、もはや珍しい光景ではありません。

中には、物語の結末だけを先に確認したり、要約サイトであらすじだけを把握して、本編を見た気になったりする人も増えていると言われます。

「無駄な時間を過ごしたくない」「効率よく流行の話題についていきたい」という切実な思いが、そこには透けて見えます。

仕事においても、家事においても、いかに無駄や面倒を省き、最短ルートで成果を出すかが称賛される時代です。

便利で快適な生活を求めること自体は、決して悪いことではありません。

しかし、私たちはなぜ、これほどまでに生き急いでいるのでしょうか。

便利になったはずが、生きることすら「面倒くさい」

人類の歩みは、時間と労力を節約する効率化の歴史でもありました。

本来、「面倒」とは「効率が悪い」ことを意味します。

かつては火加減につきっきりだったご飯炊きも、今では炊飯器のボタン一つで完了します。

手間を省く工夫によって生活は豊かになり、進歩してきました。

無駄をなくすこと自体は、決して悪いことではありませんが、あらゆる場面でタイパを追求する現代において、奇妙な現象が起きています。

家事や買い物が劇的に楽になった現代、勉強や仕事、ひいては生活全般までも「面倒だ」と訴える人が増えているのです。

ここでの「面倒」は、もはや「効率が悪い」というレベルを超え、物事に取り組むこと自体が「無駄」だという虚無感に変わってしまっています。

結果に直結しないプロセスはすべてショートカットすべき対象とみなされ、徹底的な効率化で生まれたはずの「空き時間」さえも、何かに追われるように別の情報収集などに費やされます。

生きることまで「無意味」と空しく感じてしまう。これこそが、効率を極めた私たちが陥っている「面倒くさい病」の正体と言えるでしょう。

時間を節約して、何に使うのか

ここで、非常に根本的な問いに直面します。

私たちは、血眼になって時間を節約し、タイパを向上させて浮いた時間を、一体「何のために」使いたいのでしょうか。

現代社会には、「いかに生きるか」というノウハウが溢れかえっています。

仕事の生産性を高めるツール、家事を時短する家電、資産を効率よく増やす方法……。

これらはすべて、人生をより良く生きるための「手段」です。

しかし、「何のために生きるのか」という人生の「目的」については、誰も明確な答えを教えてくれません。

向かうべき目的地(目的)が分からないまま、高性能なエンジン(効率的な手段)だけを搭載し、猛スピードで走り続けている車のようなものです。

目的地がハッキリしていなければ、どれだけ速く走っても、最後は、ガス欠になってしまいます。

行き着く先は、虚しさや疲労感ばかりです。

限られた命のガソリンがやがて尽きるのに、「この身になることが人間に生まれた目的だ。限りある命の使い道だぞ」という生きる目的がハッキリしていないのも、同じことではないでしょうか。

手段が目的化してしまい、効率よく日々をこなすこと自体が生活の中心になってしまえば、ふと立ち止まった時に「私の人生、これでよかったのだろうか」という深い空虚感に襲われることになります。

人生の目的は『歎異抄』に

では、私たちが本当に目指すべき「人生の目的」とは何なのでしょうか。

タイパで得られるような、一時的な満足感や達成感とは異なる、もっと確固たるものはないのでしょうか。

その答えを、時代を超えて示しているのが、親鸞聖人の教えを記した『歎異抄(たんにしょう)』です。

現代の私たちは、「自分の欠点を克服し、無駄をなくして、完璧に効率よく生きられるようになれば、幸せになれるはずだ」と思い込んでいます。

しかし、『歎異抄』は、私たち人間の真実の姿を「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)」(=100パーセント煩悩の塊)であると、ありのままに見つめます。

「もっと得をしたい」「もっと楽をしたい」という欲の心や、思い通りにならないことに腹を立てる怒りの心。

そうした煩悩は、私たちが生きている限り、決してなくなることはありません。

タイパを追求する心もまた、見方を変えれば「時間を損したくない」という煩悩の表れと言えるでしょう。

『歎異抄』は、そのような私たちを、そのまま絶対の幸福に救うという驚くべき道を示しています。

この絶対の幸福になった人は、心にどれだけ欲望や怒りの煩悩が逆巻いても、それが幸福の妨げになることはありません。

煩悩をなくすのではなく、煩悩を抱えたまま、絶対の幸福になれるのです。

一切のさわり(障害)がさわりとならない世界ですから、『歎異抄』にはまた、この境地を「無碍の一道(むげのいちどう)」とも説かれています。

効率やスピードばかりがもてはやされる現代だからこそ、一度立ち止まって、『歎異抄』を学んでみませんか。

生きる手段のアップデートに追われる日々から少し離れ、生きる目的について静かに思いを巡らせることが、真に生きた時間の使い道であり、「最高のタイパ」と言えるのかもしれません。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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