戦国武将として名を馳せたのが藤堂高虎です。
彼を象徴するものとして、紺地に白い丸餅を縦に3つ並べた「白餅の旗印」が有名です。
このユニークな旗印の由来には、高虎の人生を大きく変えた、ある出来事が隠されています。
若き日の高虎と、食い逃げ事件
藤堂高虎は、弘治2年(1556年)、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)で、地侍・藤堂虎高の子として生まれました。
幼名は与吉といい、身長1メートル90センチ、体重113キロという恵まれた体格に成長した彼は、武将として名を上げることを夢見て、若くして戦場へと身を投じます。
しかし、当初はなかなか思うような功績を上げられず、苦しい時期を過ごしました。
浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信長の甥・信澄と、仕える主君を次々と変え、ようやく羽柴秀長(豊臣秀吉の弟)に仕えたのは、天正4年(1576年)、20歳の時でした。
しかし、ここでもまだ目立った活躍はできず、放浪の身となってしまいます。
そして、ある日、三河国吉田宿(現・愛知県豊橋市)まで来たところで、とうとう高虎は一文無しになってしまいました。
故郷を出た時には、夢と希望に胸を膨らませていたのに、数年経った今は、金も行く当ても、希望もない。
先が見えない不安が、まるで暗雲のように頭上を覆っているかのようでした。
そんな時、高虎の腹が「くぅーっ」と情けない音を立てます。
「ああ、腹が減った。何でもいいから食べたい…」
ふと顔を上げると、そこには餅屋の看板が目に入りました。
あまりのいい匂いに、思わず、ごくんとつばをのみこんだ高虎は、お盆の上に積んであった餅に、つい手を伸ばしてしまいます。
無我夢中で餅を胃の中へ放り込み、がつがつとたちまちの間に平らげてしまいました。
その時です。
「おいお前、そこで何をしている!」
背後から、怒鳴り声が響きました。
振り向くと、店の主人が、仁王立ちで立っています。
もちろん、代金を払う金など、高虎は持っていません。
冷や汗が流れ、体の震えが止まりません。
「どうか、許してください。あまりの空腹から、ほんの出来心で、食べてしまいました……」
武将どころか、人間としても情けないと、身のすくむような恥ずかしさに駆られながら、高虎はひたすら地面に手をついて謝罪しました。
事情を聞き、しばらく腕組みをしていた主人は、やがてフーッと息を吐き、こう言いました。
「全く、こんなにきれいに平らげやがって。餅屋冥利に尽きるよ。分かったから、頭をあげな。餅代は出世払いだ」
あまりにも意外な展開に驚いている高虎に、餅屋の主人はさらに、「困った時はお互いさまっていうからな。これで、いったん故郷へ帰って出直しな」と、旅費まで持たせてくれたのです。
「必ず城持ち大名になって、この恩に報いてみせる」。
そう決意した高虎は、どん底の自分を救ってくれた餅屋の恩を忘れないため、「城持ち」にも通じる白餅柄を旗印にし、戦場で努力精進することを誓ったのでした。
恩義に報いる~30年越しの再会~
その後、高虎は羽柴秀長のもとで着実に功績を積み重ねていきます。
紀州征伐や四国征伐で武功を上げ、天正13年(1585年)には従五位下・佐渡守に叙任され、大名としての道を歩み始めます。
さらに、秀吉の甥・秀保の補佐役として活躍し、文禄・慶長の役では水軍を率いて朝鮮水軍と戦い、武名を轟かせました。
関ヶ原の戦いでは、当初は石田三成に好意を持っていたものの、最終的には家康側に味方し、東軍の勝利に大きく貢献しました。
この時、高虎は東軍の先鋒として活躍し、西軍の小西行長隊を打ち破るなどの大活躍を見せました。
戦後、その功績により伊予国板島(現・宇和島市)8万石から、今治20万石に加増転封され、伊予半国を領する大名となります。
そんな、高虎が大名にまで上り詰めたある日のことです。
大名行列を率いて、かつて訪れたあの餅屋の前を通りかかった高虎は、懐かしいその店構えに気づき、行列を止めさせました。
そして、平伏している主人に向かって、こう声をかけました。
「亭主、ずいぶん長く待たせましたな。あなたのおかげで飢え死にせずに済み、一国一城の主にまでなれた。これは以前、お借りしたものじゃ」
最初は高虎のことが分からなかった主人も、顔を見て思い出し、感激しました。
高虎は、年老いた主人に昔の恩を改めて感謝し、金銀の入った革袋を手渡すと、店にあるだけの餅を家臣に振る舞いました。
それ以降、藤堂家の行列がここを通りかかると、この餅屋で休息して餅を食べる慣例ができたといわれます。
「築城の名手」としての才能
高虎は武勇だけでなく、築城技術にも優れていました。
その才能は、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価され、数々の名城の築城に携わっています。
高虎が手掛けた主な城としては、今治城、伊賀上野城、篠山城、津城、そして江戸城などが挙げられます。
これらの城は、いずれも堅固な防御力と実用性を兼ね備えた、優れた城郭として知られています。
また、高虎は城下町の整備にも力を注ぎ、商業の発展や民衆の生活向上にも貢献しました。
このような、高虎の多岐にわたる才能は、単なる武将の枠を超えた、政治家としての優れた資質をも示していると言えるでしょう。
「恩」とは原因を知る心
高虎は、75歳で亡くなるまで、実に7度も主君を変えながら、最終的には外様大名でありながら32万石の大名にまで出世しました。
これは、高虎の武勇や築城技術だけでなく、人との出会いを大切にし、受けた恩を決して忘れないという、彼の人間性によるところも大きいでしょう。
「恩」とは、原因を知る心と書きます。
今の「私」があるのは、あの時、あの場所で、あの人に会えたからこそ。
つらい時代に手を差し伸べてくれた、恩人への感謝が、高虎の行動原理であり、原動力だったのでしょう。
白餅の旗印は、「感謝」に生きた高虎の人生を物語っているようです。
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