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今回はこんなお悩みについてです。
反省して、次に活かす。
いつもそうできたらいいですが、なかなかできないですよね。
ロボットなら、プログラムすれば機械的に処理できるでしょう。
ですが、感情がある人間なので、落ち込むこともあるのが自然です。
喜怒哀楽、感情の豊かさをもつのが人間の良さとも言えます。
人間以外でも、感情の豊かさがあるものに魅かれる面はあるでしょう。
たとえば、犬や猫は、表情はありませんが、しぐさで喜怒哀楽を察するから、心の交流ができます。
草木や花であっても、よく観察する人は、元気か、元気がないか、感情のようなものを読み取るから、愛着が湧くのではないでしょうか。
感情にふり回されるのは、苦しいことですが、悪いことばかりではありません。
仏教では、自分の心を見つめます。
なにも悩まない人なら、そういう教えも必要ないでしょう。
欲や怒りに悩むほど、だからこそ喜びがある。
そんな心の境地もあります。
ただ、自分を責めすぎると、余計につらくなることもあると思います。
あなたが「苦しみの負のサイクル」から抜け出せるように、一緒に考えてみましょう。
自分を責めることは、悪いことばかりではありません。
それだけ「また悪い結果を受けたくない」という気持ちが強い証拠だと思います。
それは大切な心がけではないでしょうか。
幼い頃から、自分を責めてきた人は、まじめで堅実であることも多いです。
なぜ、自分を責めるのでしょう。
子どもの場合。
親に見捨てられたら、小さな子供は生きていけません。
見捨てられるリスクを減らすために、自分で自分を罰することがあります。
大人の場合。
村八分に遭ったら、その場所で生きていけません。
そのコミュニティの求める「枠」から、はみ出ないために、自分で自分を罰します。
今日まで生き延びることができたのですから、あなたの生存戦略は正解だったということではないでしょうか。
あなたがこれまで経験学習したことは、その環境で生き延びるために、必要でした。
自責感情にも意味があったのです。
自分を責めるのは、「生き延びるため」でした。
自分を責めることで、親や社会のコミュニティの求める「枠」から、はみ出さず、生き延びてこれたのです。
しかし、長期間にわたると、失敗を恐れるあまり、「無気力になる」「引きこもる」「病気になる」という形で、【社会参加しないことで失敗を回避する】ようになるリスクもあります。
「無気力になる」「引きこもる」「病気になる」ことが、すべて悪いとは思いません。
自分の身を守るため、生き延びるため、回復するために、必要なときもあります。
ところが、自分責めが、役に立たなくなる時があります。
実はもう、安全なのに、こういった感情が長引いているなら、今はその行動が「不適応的」な行動になっています。
自分を責めることが、今の生活において、不適応的ならば、ゆるめたほうがラクになります。
自分を責めると、つらいですよね。
その一方で、どこかラクな感じがしませんか。
なぜ、もう「不適応的」な行動なのに、やめられないのか。
脳には、電気信号が流れています。
頭が働くときは、電気信号が流れることで、情報を伝えています。
その電気信号は、通りやすいところと、通りにくいところがあります。
自分を責めるクセは、自分を責めるのに慣れて、電気の流れが通りやすくなっています。
自分を責めているほうが、ある意味ラクなのです。
でも、脳には可塑性があります。
ピアノの練習でも、最初はうまく指が動かなくても、練習すると「指が勝手に動く」と感じるくらい、スムーズに弾けるようになります。
自分を褒めたり、前向きに現実に対処したりする脳の回路も、新たにつくることができます。
自分を責めるのは、クセになっていて、なかなか止めるのは難しいものですが、新たな脳の回路をつくるほうが、比較的簡単です。
初めは苦労するかもしれませんが、ピアノの練習と同じように、慣れてしまえば、スムーズにできるようになります。
そう言われたって、責めてしまうものは責めてしまうものです。
自分を罰しながらも、行動をすること。
このほうが大切だと思います。
認知行動療法というものがあります。
「認知」と「行動」にアプローチする方法です。
ストレスを感じたとき、
この4つが、お互いに影響を及ぼし合います。
「感情」や「体の反応」は、自分の意志でコントロールすることは難しいと言われます。
そこで、「認知」と「行動」を、適応的なものに変えていきますが、
自分を罰するのは「認知」です。
「認知」がなかなか変わらないときは、「行動」を変える。
そうすると、「認知」も影響を受けて、変わりやすくなります。
行動しているうちに、
このように、認知のバランスが取れてきます。
自分を責めながらでも、行動はできます。
あなたが今できる範囲で、行動しましょう。
行動を続けることで、得ているものも多くあると思います。
同時に、行動量が増えれば、当然、失敗も出てきます。
失敗は、行動した「勲章」のようなものですから。
失敗する自分を責めて苦しいときは、自分を責めるクセ、つまり「認知」をゆるめるアプローチしてみましょう。
大人になると、どちらが正解かわからないことも、多いものです。
あなたがそう思ったとしても、そうとも限らないかもしれません。
自分を責めている、あなたのやった「失敗」は、まわりにとっては「よかったこと」かもしれません。
何ごとも完璧にできる人が、愛されるとも限りません。
失敗したり、落ち込んだり、泣いたり笑ったりする人のほうが、感情豊かで、愛嬌があると思われるかもしれませんよ。
こんなとき、自分を責めてしまうのも当然です。
少しも自分を責めない人のほうが、心配かもしれません。
同時に、自分を責めずにおれない大失敗の後、自分でリカバリーする力も大切です。
仏教の考え方が、ヒントになると思います。
すべてのことは、因と縁がそろうことで、結果が生ずると仏教で言われます。
これを「因縁果の道理」といいます。
因とは、自分の行いです。
縁には、いろいろなものがあります。
たとえば、「米」という結果について考えてみますと、
米の因は、稲の種(モミダネ)です。
米の縁は、土、日光、水、肥料、気温、寒暖差、湿度、水はけ……といった、さまざまな条件があります。
あなたに生じた出来事も、あなたの行いだけで結果が生じることはありません。
複雑な因縁によるものです。
自分を責め続けるのは、自分で自覚してコントロールできる「因」だけが問題だと思っているからではないでしょうか。
因縁がそろってしまうと、自分の力ではどうにもできないこともあります。
自分を責め続けるのは、それが「取り返しのつかない一大事」だと感じているからかもしれません。
たしかに、つらい大失敗は、一大事だと感じることもあります。
周囲の人も、一大事だと思い、凄い剣幕で怒ってくるかもしれません。
しかし、仏教では、「取り返しのつかない一大事」は、たった一つしかない、と教えられます。
それは「死の一大事」です。
死ぬこと以上の「一大事」はありません。
「死の一大事」と比較すれば、仕事の失敗、人間関係の亀裂、借金、事故などは、「大事」ではありますが「一大事」ではありません。
その時は、取り返しがつかないと思っても、時間が経ってみれば、あれでよかったのだと思えることもあります。
「死の一大事」を大きな山だとするならば、それ以外のどんな苦しい出来事も、イノシシくらいのものです。
山より大きなイノシシは出ないのです。
トラウマティックな出来事や困難な経験をきっかけに、人間として心が成長していくことをPTG(心的外傷後成長)といいます。
自分を責めるクセを、逆利用して、未来につなげることができます。
自分を責めてしまうような出来事も、自分を責めてしまうクセも、これがあったから今の自分があると思えるようになりました。
また、今の悩みは、未来の自分に必要なことだから起きていると思います。
仏教では、すべての人間の本当の姿は、弱く、悪く、欲や怒りや愚痴でできている悪人だと言われます。
欲や怒りに悩む人を相手に説かれています。
私は仏教を学ぶほど、自分の弱さを受け入れてもらっていると感じ、人生に感謝できるようになりました。
しかし、初めからその姿を受け入れられる人はいません。
「自分は、もっといい人間だ」と思っているからです。
自分を責めるのも、ある意味、「自分は、もっといい人間だ」と思っているからではないでしょうか。
仏教で「因縁果の道理」を教えられたのは、じつは深い意味があります。
頭で考えてわかることではありません。
机上の空論では通れない道です。
仏教に教えられる通りの、自分の本当の姿を知らされたとき、どんな酷い目にあっても変わらない心の幸せになります。
「死の一大事」の備えが完了するので、死に直面しても、変わらない安心になります。
山より大きなイノシシは出ないので、もちろん、他のどんなことが起きても、崩れない幸せです。
言葉だけ聞いてわかるような、浅いものではありません。
記事ではとても説明しきれない深い話です。
あなたも心の幸せになって、有意義な毎日を過ごしてもらいたいと願っています。
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