「余の辞書に不可能の文字はない」と聞けば、誰しも、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の名前を思い浮かべるでしょう。
18世紀の末、混迷を極めたフランスに彗星の如く現れ、あっという間にフランスをまとめあげ、全欧に覇を唱えました。
西郷隆盛や吉田松陰といった幕末維新の偉人たちも、競ってナポレオンの伝記を読みあさり、彼の人生に学んだといいます。
そんな、ナポレオンの人生から学びましょう。
秀吉を超えるスピード出世!わずか20年で皇帝に
彼は16歳のときに士官学校を卒業してからというもの、裸一貫で少尉から身を起こして、皇帝にまで昇りつめた破格の人物です。
大出世といえば、足軽から太閤にまで昇りつめた豊臣秀吉が思い浮かびますが、彼は14歳の初仕官から天下人となるまで、約40年を要しています。
それに比べてナポレオンはその半分の20年足らず、なんと35歳の若さで皇帝にまで昇りつめたのですから、異例の出世スピードです。
一見、順風満帆に人生を歩んだかと思えますが、実はそうではありません。
「いじめられっ子」ナポレオン
ナポレオンは、コルシカ島出身のイタリア系で、生粋のフランス人ではありませんでした。
9歳のころ、諸般の事情で親元を離れて単身フランスに渡ってきたのです。
陸軍幼年学校に入学しましたが、新しい環境になかなか馴染めませんでした。
コルシカ訛りもとれなかったため、「田舎者」として同級生から格好のいじめの対象となります。
彼は孤立し、無口で、ひとり黙々と本を読む少年となっていきます。
当時のフランス将官はすべて上級貴族で占められていました。
下級貴族でしかも生粋のフランス人ですらないナポレオンが、フランスで出世する可能性はほとんどありません。
学校生活の中で、「ここは俺の居場所ではない! いつかコルシカに帰って、故郷に錦を飾ってみせる!」という想いを深めていきます。
失意のナポレオン|故郷コルシカで夢破れ
そんな折、コルシカにパオリ将軍が亡命先のイギリスから帰ってきたとの報を受け取ります。
パオリ将軍は、ナポレオンが生まれる前、コルシカ独立戦争で活躍し、「祖国の父」と讃えられていた英雄です。
ナポレオンは、パオリ将軍を慕い、フランス陸軍大尉の地位を投げ出してコルシカに帰島します。
しかし、永らくイギリスで亡命生活を送った老将軍(パオリ)と、フランスで青春を過ごした青年将校(ナポレオン)では、あまりにも政治理念に隔たりがありました。
たちまちナポレオンとパオリ将軍の関係は悪化。
ボナパルト家の全財産は没収され、ナポレオンはコルシカから追放となり、命からがらフランスに舞い戻らざるを得なくなります。
母と3人の弟と3人の妹を養っていかねばならず、ナポレオンは急速に困窮していきました。
なんとか原隊に復帰できたものの、コルシカに錦を飾る夢破れ、尊敬していたパオリ将軍には失望し、人生の目標を見失ってしまいます。
訪れた転機「フランス革命」チャンスを生かし砲兵隊長に大抜擢
しかし、挫折もときに、好機となります。
幸か不幸か、コルシカ帰島中の短期間に、フランス情勢は激変していました。
フランス革命は急速に過激化し、国王ルイ16世は処刑され、上級貴族たちがぞくぞくと亡命し始めていたのです。
将官不足で、閉ざされていた出世の道が拓かれました。
ナポレオンはすぐに机に向かい、わずか1カ月で『ボーケールの晩餐』という小冊子を書き上げます。
自費出版した直後、彼の人生を変える事件が起こりました。
彼の住むマルセイユからわずか50キロのトゥーロンの反乱で、砲兵隊長の補充が求められ、適任者として、ナポレオンの名が上がります。
このときの推薦資料として提出されたのが『ボーケールの晩餐』でした。
こうして、何の実績もなかったナポレオンがいきなり砲兵隊長に大抜擢されることになります。
ナポレオンはこの貴重なチャンスをモノにしたのです。
「アルプスを片付けろ!」 ナポレオン、快進撃の始まり
一介の貧しい将校だった彼は、砲弾攻撃を駆使した見事な戦術で手柄を立て、出世していきます。
革命軍の大半は、意欲はあっても経験のない、訓練未熟の新兵ばかりでした。
そんな軍を指揮して勝利に導き、欧州全土をほぼ席巻できたのは、果断に富んだ彼のリーダーシップによるところが大きいといわれます。
彼の強い意志を物語るのが、イタリア遠征時の「アルプス越え」でしょう。
軍隊の行く手を雪に閉ざされたアルプス山脈が阻んでいるとの報告を受けた彼は、「それならアルプスを片付けてしまえ」と部下たちに号令。
断固たる決意で、それまで誰も近づけなかった峠に道を切り拓きました。
「こんな雪山から攻めてくるはずがない」の盲点を突いて奇襲を成功させ、ナポレオン軍は会心の勝利を収めたのです。
26歳で、イタリア遠征の軍司令官に就任。以来、快進撃を続け、ヨーロッパをほぼ席巻し、「不敗将軍」と謳われました。
観光名所である凱旋門も、彼の勝利を祝って建設されたものです。
「私の生活は不断の悪夢」床屋を恐れた皇帝ナポレオン
しかし、そんな連勝の最中、妻・ジョゼフィーヌへの手紙には、こう心情を告白しています。
刻々と変化する戦況、数多の将兵の命を預かる立場の重さ。
負けられない戦いに臨み、焦燥感に駆られる日々だったのでしょう。
「3時間睡眠」の逸話もささやかれるほどですが、眠らなかったというより、不安で眠れなかった、のかもしれません。
フランス皇帝となり、最高権力を手にしたあとも、自身で髭を剃っていた、というエピソードは有名です。
床屋に剃ってもらえば楽なのに、そうしなかったのは、変装した暗殺者にカミソリで喉を切り裂かれては、の不安からだといわれます。
英雄の落日|ナポレオン、孤独な島で迎えた最期
しかし、ナポレオンの運命も、ロシア遠征の失敗を機に傾き始めます。
1815年、ワーテルローの戦いでついに敗北。
最後は、絶海の孤島、セント・ヘレナ島に幽閉されての寂しい6年間でした。
かつてヨーロッパ中の戦場を駆け巡った皇帝も、今や厳重な包囲網の中、過去の栄光を回顧する日々。
号令を下せる部下も、激賞する国民もありません。
「人生は取るに足りない夢だ。いつかは消え去ってしまう……」
「ここでありあまっているのは時間だけだ」*2
往時の輝きがまばゆいだけに、彼のつぶやきは、叩けばうつろな響きしかない晩年の虚しさを物語っています。
「人は山の頂上に登ることはできても、長くとどまることはできない」と言われます。
さしものナポレオンも、栄光を保ち続けることは、「不可能」でした。
[出典]
*1 オクターヴ・オブリ編 大塚幸男訳『ナポレオン言行録』岩波書店
*2 木原武一『人生最後の時間』PHP研究所
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