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『舟遊びをする人々の昼食』1880-81年 フィリップス・コレクション(ワシントン)
(出典:Wikimedia Commons User:Pataki Márta)
昨年、没後100年を迎えたフランス印象派を代表する画家・ルノワールは、今も多くの人に愛されています。
誰よりも人間への関心が強く、健康美あふれる裸婦や少女、さらに恋人や友人たちの幸福そうな生活情景を描いた傑作を数多く残しています。
人々の心を安らかにする、暖かみあふれるその画風から、いつしか人々は彼を、「幸福の画家」と呼ぶようになりました。
作品を見ると、確かに、人生の明るい側面にひたすら光を当てていることが分かります。
しかし実際には、幸福ばかりが彼の生涯を彩っていたわけではありませんでした。
なぜルノワールは、ひたすら幸せな光景を描き続けたのでしょうか。
彼の生涯を振り返りつつ、キャンバスに込めた想いに迫ります。
『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』ビュールレ・コレクション(チューリッヒ)
(出典:Wikimedia Commons User:Hohum)
ピエール・オーギュスト・ルノワールは、フランス中南部のリモージュで生まれました。
3歳からは家族全員で花の都・パリに移り住みます。
父親は仕立て屋、母はお針子の仕事で、貧しいながらも、仲良く、幸せな少年時代を過ごします。
そんなルノワールが絵画の分野で才能を発揮し始めたのは、13歳の時でした。
小さな陶磁器工場で、絵付け職人見習いとして働き始めた彼は、コーヒーカップに小さな花模様や、牧歌的な羊飼いの風景、マリー・アントワネットの肖像などを描き、注目を集めるようになったのです。
彼の天才的な腕前を、周囲は有名な画家になぞらえ、「ムッシュー・ルーベンス」と評しました。
そんな彼は、昼休みになると昼食もとらずに近くのルーブル美術館に足繁く通い、審美眼を磨いたといいます。
しかし、彼の最初の仕事は、長くは続きませんでした。
ちょうどこの時期、フランスに産業革命の波がやってきたのです。
陶磁器に絵をプリントする技術が導入され、多くの絵付け師がクビになっていきました。
ルノワールも時代のあおりを受け、たった4年で絵付けの仕事を失ってしまいます。
しかし、このことがきっかけとなり、ルノワールは画家を目指し始めることになりました。
後年、彼は、「もし磁器の仕事が順調だったら、画家にはならなかったかもしれない」と述べています。
「人間万事塞翁が馬」と言われますが、もし、彼が絵付け職人として成功していたならば、「天才画家ルノワール」は、誕生していなかったかもしれません。
モネ『印象・日の出』(1872年)
(出典:Wikimedia Commons User:Paris 16)
それからしばらく彼は、女性用の扇子などに絵を描くことになりました。
幾度も名画を模写しなければなりませんでしたが、そのことで、彼は絵筆を使う技術を貪欲に会得していきます。
「芸術家というものは、自分に才能があると思うとだめになってしまう。つけあがらず、職人みたいに仕事をしてこそ、はじめて救われる」
そう語るルノワールの飽くなき向上心は、この時期に培われたのでしょう。
やがて、21歳でパリの国立美術学校に入学。
やがて画塾で知り合ったのが、同時期の有名な画家となる、若き日のモネ、シスレーらです。
フランスでは当時、「古典主義」が幅を利かせていました。
絵のモチーフは神話や聖書に限られ、細密画のような自然描写と、理想的な肉体を描くことが、画家として認められる道だったのです。
そんな古いしきたりを打ち破ったのは、新進気鋭の画家マネでした。
ルノワールの10歳年上にあたるマネの描く風景は、見たことのない自由と喜びにあふれ、古典主義に飽き足りないルノワールを、たちまち、とりこにしていきます。
やがて、モネ、シスレーらの仲間とともに、1874年、「印象派」を立ち上げました。
ルノワールをふくむ印象派の画家たちの絵画は先鋭的で、はじめは世間になかなか認められませんでした。
絵がなかなか売れず、貧しい生活を送っていたようです。
画友バジールへの当時の手紙には、こう記されています。
「毎日食事ができるってわけにはいかないけど、結構楽しくやっているよ」。
かろうじて生計を立てる中、同じく貧しい生活にあえぐモネに、食べ物を送り届けています。
絵の具が買えないため、二人でセーヌ河にでかけ、画材を分け合って描いていたこともありました。今日も、二人がキャンバスを並べて描いたと思われる、ほぼ同じ構図の絵が残っています。
苦しいときほど、志を同じくする友との出会いが宝です。
彼らの友情が大きな軸となり、絵画史を塗り替える大きな流れが急加速していきました。
『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(1876年 オルセー美術館)
ルノワールの努力と熱意は、やがて実を結び始めます。画商に認められ、絵が売れ始めたのです。
日常の風景を、主観的に見えるまま描き出す印象派の中でも、ルノワールの特徴は、情緒的な人物画にありました。
「私が好きなのは皮膚だ。若い女性の、ピンク色で血のめぐりのいい皮膚なのだ。しかし何といっても好きなのは、健やかさなのだ」
ルノワールは、人々の喜びや女性の輝きを、柔らかなタッチで描き続けました。
落ち着いていて控えめな性格もあり、たくさんの人に親しまれる画家となっていきます。
パリの目抜き通りに大きなアトリエを構え、画家として大成。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」などの名作もこの時期に誕生しています。
まさに、押しも押されもせぬ巨匠となったのです。
ところが、そんな彼の肉体に異変が起きはじめます。
56歳の時、自転車から落ちて骨折したことがきっかけとなり、リューマチ性疾患が始まったのです。
症状が進むと、この病は彼に、非常な苦痛を与えました。
骨は変形し、体重は47キロに激減。
麻痺のため、松葉杖をついて歩くこともできず、車椅子の生活を余儀なくされました。
晩年、彼の両手は、鳥の爪のように完全に変形し、爪が肉に食い込むのを防ぐために包帯を使わなければならないほどでした。
自分で絵筆を持つことなど、到底できる体ではありませんでしたが、そんな中でもルノワールは、硬直した指の間に絵筆をくくりつけ、執念で絵を描き続けたのです。
才能を発揮できない無念さを、次のようにも語っています。
亡くなる年、ルノワールは大型の作品『大きな浴女』を、激しい痛みの中、完成させました。
仕上げた時、彼はこう話しています。
「絵の描き方ってものが、ようやく少し分かってきたよ」
1919年の12月3日、ルノワールは78歳の生涯を閉じました。亡くなる直前まで、彼は絵を描いていたといわれています。
病に苦しんだ晩年の、彼の何百という作品には、全て、穏やかな幸福と楽しさだけが描かれていました。
生前の、ルノワールの言葉には、そんな彼の想いが、にじみ出ています。
「私にとって、絵は楽しく美しいものでなくてはならない。――そう、美しくだ。これ以上我々が生み出さなくても、この世に不愉快なことなど、いくらでもあるじゃないか」
彼のキャンバスには、人の世が苦しみ多きがゆえの、「幸せあれかし」の強い願いが込められていたのかもしれません。
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