人間関係

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人間関係を悪くする心の正体|自覚なき上から目線の恐怖

こんにちは、編集部ディレクターの晴子です。

気がついたら、今まで仲の良かった友達が、急によそよそしくなって、離れていってしまった。

自分では原因が分からない、ということはありませんか。

あとから、「あの発言がまずかったのだろうか」「馴れ馴れしくしすぎたかしら」と、振り返ってみても、いまいち、納得できないことも……。

今日は、そんな事態を引き起こしがちな、「慢(まん)」の心についてお話しします。

自分でも気づかない、自分の心を知ることで、スッキリ、これからの人間関係も、より気持ち良いものになっていきます(^^)

この世で一番好きな人は…

仏教では、自惚れ心を慢と言われます。

自分のことを良く思い、悪く思えない心です。

そのように聞くと

「私は自惚れていない。むしろ、自分のことが嫌い」

「謙虚に努めているつもり」

という方もあると思います。

でも、実は、この自惚れ心、自分の自覚していないところで動いているものなのです。

例えば、思い出してみてください。

修学旅行の時、クラスの集合写真を、誰から見ましたか?

「自分」ですよね。

次に見るのは、好きな人、親友、友達……。最後に、先生もちゃんと写っているわ~などと、気になっている人から見ていきます。

でもやっぱり、最初に見るのは「自分」

3種類の集合写真の中から1枚を選ぶ時、「自分」が良く写っている写真を探します。

他の人が良く写っているけど、私が半目の写真は、絶対に、選びません。

好きな人以上に、気になり、大事に思うのが「自分」なので、自分に惚れている、「自惚れ」というんですね。

さて、惚れているとどうなるでしょうか。

好きな人や、自分の子供には、欲目が働く、と言われます。

○欲目(よくめ):自分に都合のいい見方。ひいきめ。
(『新明解国語辞典』三省堂)

「アバタもエクボ」で、恋をすると、その人の全てが可愛く、かっこよく見えますね。

“お宅の子供が万引きをした”と警察が親に電話すると、「うちの子に限って、そんなはずありません」と言うそうです。

うちの子に限って、ですから、他の家の子はするでしょうけど、うちの子に限ってはしない、という欲目です。

そんな欲目が働いているわが子が、万引きをした、とはっきりしたら、落胆も大きいものです。

まして、自分のことは、それ以上に欲目で見てしまいます。

仏教では、修行すればするほど、「自分はこれだけやっている」の心が出てくるので、仏道を求める人が最後まで苦しむのも、この自惚れ心、慢の心だと言われます。

仏教では、その自惚れ心を7つに分けて「七慢」(しちまん)と言われます。

1.慢(まん)
2.過慢(かまん)
3.慢過慢(まんかまん)
4.我慢(がまん)
5.増上慢(ぞうじょうまん)
6.卑下慢(ひげまん)
7.邪慢(じゃまん)

の7つです。

人間関係を悪くする慢

最初のは、自分よりも劣っている相手に対して「みじめだな」「なさけないな」「バカだな」と思う心です。

テストの点数で、自分が80点で、相手が70点だったら、「自分の方が上だ~(*´∀`)」と、喜んで、ご機嫌で、心晴れ晴れとした気持ちになります。

相手が低かった、自分の方が上だったのだから、そう思うのは当然だと思いますが、相手を心で踏みつけている、恐ろしい心と言われます。

相手の立場に立ったらどうでしょうか。

テストの点が上だった相手が、ニコニコしている。

言葉で言わなくても、目が、上から目線。

「自分の方が上なんだ」の心が、目からにじみ出てくると、点数の低かった私はいたたまれない。押しつぶされそうな、苦しい思いがします。

ちょっとこの人とは、距離を置こう…と、知らず知らずの間に、人間関係を悪くしてしまう、恐ろしい心です。

無自覚では、この心に気づかず、上から目線にも気づかず、野放し状態で、思い放題、やり放題になってしまいます。

少しでも自覚しようと努めることが大切です。

「あぁ、今、こんな恐ろしい心だったな。あの人にはいつもお世話になっている。あの人は他で自分にはできない仕事をしている」と、上から目線から降りて、相手を尊重することが、幸せのカギなのです。

お釈迦様は、気づいていない、自分の心の姿を観なさいと、教えられています。

どんな人間関係でも

次の過慢とは、自分と同じ程度の相手なのに、「自分の方が上だ」と威張る心です。

同等の人がいたら、「あいつも頑張っている。オレと同等だなぁ」と思えますか?

相手も自分も80点だったら、どんなことが思えてくるでしょうか。

「あいつは塾に通って80点、オレは通信講座で80点。独学度が高いし、家計の負担も少ないオレのほうがよく頑張っている。条件が同じなら、自分の方が上だ」

「あの子は致命的な間違いで80点、私はケアレスミスで80点。ケアレスミスはミスの内に入らないわ」

はたまた、

「あの子はケアレスミスで80点、私は決定的な間違いで80点。でも、昨日、この単元をあと10分多く勉強したら、私は90点だったはず。だから、私には伸びしろがあるわ。でも、ケアレスミスはそそっかしい性格の結果だから、カンタンには直らない。あの子はどれだけ勉強しても80点のままね」

このように、自分の都合の良いように理由をつけて、自分の方が上だと思わないと、心は落ち着きません。

3番目の慢過慢は、明らかに相手の方が優れているのに、「自分の方が上」と思う心です。

どうしたらそんなことを思えるのかと、思うかもしれませんが、相手が90点、自分が80点だったら、そのまま「相手の方が優秀で、素晴らしいなぁ」とは心が落ち着きません。

「あいつは勉強は少しはできるかもしれないけど、スポーツはまるでダメじゃないか。ガリ勉だよね。オレは勉強もまあまあ、スポーツもまあまあできる。これからはバランスの良い人間が求められるんだ」と、得手の良い所を持ってきます。

クラスに1人か2人は、勉強もできて、スポーツもできて、顔も良くて、学級委員もしているような子がいます。

すると、「出来すぎ君にはできない者の気持ちが分からないだろう。愚痴話も合わないし、悩み相談にも共感できない。自分の方が、クラスのみんなの気持ちが分かる」と、落ち着こうとします。

自分が下とは思いたくない、自分が上でありたいという心一杯。

首相や大臣やコメンテーターを、テレビを見ながら「あんなことなら、自分の方ができる」と評価し、なかなか尊敬する思いまで至りません。

こんな心が言動に出ると、周りからは「自分のことを棚に上げて…」と、違和感を感じることもありますが、自分では気づかないものです^^;

人間関係を断つ心

4番目の我慢とは、よく「暑いのを我慢する」と言われるような、忍耐するという意味ではなく、「意地や我慢」と使われるほうの意味です。

自分の間違いに気づきながらも、自分の意見をどこどこまでも押し通そうとする心です。

「はっても黒豆」ということわざがあります。

床に落ちている黒いものを指差して、子供が「あ、虫だ」。お父さんが「違うよ、黒豆だよ」と言うと、だんだん言い争いになります。

「お父さん、よく見なよ、虫だよ」。

「違うよ、それはさっきお母さんが買ってきた黒豆が落ちたんだよ」。

そんな時、黒いものがモゾモゾっと動いたらどうでしょうか。

子供は「ほら!動いた!虫だったでしょ!」と得意満面でも、言い争っていた分、お父さんは素直に自分が間違いを認められません。

「………知らないのか、これは這う黒豆なんだよ。最近の遺伝子組み換え黒豆は、這うんだ」と言い張る。

こんなのを、我慢と言います。

この話は笑い話でも、実際、「どんなに論理的に話をしても、相手も分かっているはずなのに、認めようとしなかった」という話は聞きますし、「自分も謝れば良いと分かっているのに、なかなか謝れなかった」ということもあります。

会社で問題が発生して、皆が原因を考えている時に、自分一人「あ、私が計算を間違ったのが原因だ」と分かったら、どんな心が動くでしょうか。

「すぐに謝ります!」となれば良いのですが、「まだ、みんな、私のミスに気づいていない。何とかして、自分のミスではないことにできないかな……」と、頭が回転し始めます。

考えてみても、やがては自分のミスだと分かるな…となれば、なぜ、私がミスをしたのか、どんな状況で、ミスして当然とみんなが思うような、いわゆる「言い訳」を考えます。

最後に、上司に謝る時には、言い訳っぽくならないように、みんなから「あの人も頑張っていたけど、状況的にミスをしてしまったんだね。自分の非を認めて偉いな」と思われるような誤り方を考えている。

そんな、どこどこまでも、自分の誤りをそのまま認めたくない心が動きます。

この我慢は、歳を取るほどに厄介で、

・小学生の時は、ケンカしても、夕方には「ごめんね。明日から一緒にあそぼ」と言えたのが

・中学生でケンカをすると、1週間、お互いの距離は離れたまま

・高校でケンカをすると、1ヶ月、口を聞かない

・社会人でケンカをすると、もう会わないまま

ということもあります。

兄弟なのに、ちょっとしたことで謝れずに20年以上会っていない50代の親戚や、仲の良かった友達に、謝れなくて、それから疎遠になってしまったということもあります。

一言、「ごめんね」と言えれば、人間関係が戻ったかもしれない大切な人が、この我慢によって、もう二度と、人生で近づくことのない人になってしまうことがあります。

そう思うと恐ろしい我慢。

まだまだ相手との溝が小さいうちに、「ごめんね」と言えるように、我慢の心と戦って、自分の誤りを認めるように努めていきたいですね。

人間関係の中にいろいろな慢

5つ目の増上慢とは、仏教の、覚りを開いてもいないのに、覚ったと自惚れる心です。

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われて、歴史上、みんなから認められている仏様はお釈迦様だけですが、自称、仏の覚りを開いたという者はいろいろいます。

人間関係の中で、そのような人と会うことはあまりないかもしれませんが、「自分は世の中のことを全て分かっている。私があなたに教えてあげる」という雰囲気の人がいたら、少し距離を置きたくなるかもしれません。

6つ目の卑下慢とは、

「私ほどお粗末な者はおりません」

「私は未熟者です。ご指導よろしくお願いいたします」

「私が悪かったのです。申し訳ありませんでした」

と、深々と頭を下げることによって、

「こんなに頭の低い人はいない。頭を下げられる自分は、謙虚で、人としてよくできている。偉いだろう」

と、自惚れる心です。

私が初めてのアルバイトで、うどん屋さんの接客をしていた時のことです。

失敗をした時に、社員さんに90度腰を曲げてお詫びしていました。

その時、心に思っていたのは、「ここまで頭を低くしてお詫びできる大学生はなかなかいない。さすが!仏教を学んでいる私は謙虚な大学生だなぁ」ということでした……。

当時のお客様、お店の方、誠に申し訳ありませんでしたm(_ _)m

日本では特に、謙虚が美徳とされていますので、この卑下慢を実感するという方は多くおられます。

ここで、注意点なのですが、お詫びしている人、お辞儀している人を見て、「あ!あれは卑下慢だ」と、人に対して思うものでも、言うものでもありません。

他の自惚れ心もそうですが、お釈迦様がこのように教えられているのは、あくまで、自分の心を見つめなさいということです。

お詫びしている人は、下げられない頭を下げられている、素晴らしいことです。

あくまで、自分自身の心の動きを見つめて「このような心はないか」と、お釈迦様が教えられている心ということです。

他人のことを、「それは慢だ」と言っていたら、それこそ、人間関係が大変なことになってしまいます…^^;

最後の邪慢は、とんでもないことを自慢することです。

窃盗犯が、如何に素早く、巧みに盗むかを自慢する、殺人犯が、残虐ぶりを自慢すると聞けば、あきれると思いますが、刑務所の中では、犯罪や刑罰の重さが自慢の種になることがあります。

もっと身近なところでは、テスト当日の朝、如何に勉強しなかったか、言い合っています。

「全然試験範囲終わらなかった~」

「私なんてテスト勉強始めたの3日前だよ」

「私なんて昨日一日、徹夜したの」

「私はノー勉よ!」

このように、勉強していないことを自慢し合っています。

大人になったら、お酒で失敗した話、仕事でミスをした話、オレのほうが、私の方が、と、ダメなことでも「すごい」「真似できない」と言われたい、注目されたい。

このように、私達は、自惚れ心の塊です。

自分の自惚れるものがなくなると、子供自慢、孫自慢、子供の同級生のお母さんが、あの有名人の親戚で…と、会ったことのない人まで自慢するのに引っ張ってきます。

自慢話を聞かされている相手は、

「また始まった、早く終わらないかな」
「そんな言い方があるか。非常識な」
「思うようにいかないこちらの気持ちも考えろ」

など、思っているかもしれませんが、表情だけは笑顔で聞いてくれているだけかもしれません。

あの人、最近、急によそよそしくなったな、という時の原因は、いろいろありますが、

うぬぼれは 人に見えても身に見えぬ

といわれるように、自分は気づかなくても、相手が慢の心に心痛めるような表情や言い方、振る舞いがあったのかもしれません。

仏教を聞くと、自分でも分からない自分の姿が知らされます。

自覚しなければ、反省することも、直す努力もできません。

自分を知ること、改めることは、楽なことではありませんが、自分も周りの人も幸せに生きるための努力を、日々心がけたいものですね。

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仏教を学べるセミナーに参加された方の感想を紹介しましょう。

「女性同士の会話に疲れて、いろいろ悪いことを思ってしまう自分は、なんて醜いのかと自分が悪いと思っていたんです。それが、仏教を聞いて、みんな同じなんだと知って、とても楽になりました
「人間の本当のすがたを、お釈迦様が教えられているのを聞いて、私だけではなかった。人間みんなそうなんだ。と分かったら、今までいろいろ悩んでいたけど、冷静に物事を考えられるようになりました
「仏教を聞いてとても心が明るくなりました。人間関係も割り切れるようになって、こんな時は、みんなこんなふうに思うから、こうなっても当然だな、と思うようになりました

皆さんも、仏教を続けて聞けば、必ず物事の見方が変わります。とても心が強くなった、という人もいます。

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この記事を書いた人

ディレクター:晴 子

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