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絶望から生まれた「魔法」ウォルト・ディズニー、夢と逆転の物語

こんにちは、齋藤勇磨です。

成功の絶頂から一転、裏切りにより全てを失った若きウォルト・ディズニー。

だが彼は諦めませんでした。

失意の列車で生まれた「希望のアイデア」とは?

あの小さなネズミが、いかにして世界を変える「魔法」を生んだのか。

逆境に立ち向かう勇気と希望が湧いてくる、感動の逆転物語をお届けします。

夢への快進撃!若きウォルト、初めて掴んだ成功と迫りくる暗雲

「自分の絵で世界中の人々を笑顔にしたい」。

そんな純粋な願いを胸に、一人の青年が大きな夢への一歩を踏み出しました。

彼の名はウォルト・ディズニーです。

1901年、アメリカ中西部の、にぎやかな街シカゴに生まれたウォルトは、幼少期を過ごしたミズーリ州マーセリンでの農場の思い出を大切にしていました。

動物たちと触れ合った経験や、絵を描くことへの強い気持ちが、彼を芸術の道へと進ませます。

第一次世界大戦では、年齢を偽って兵隊として参加するなど、若い頃から普通ではない人生を歩み始めていました。

18歳になったディズニーは、夢をかなえるため、カンザスシティの広告会社で働き始めます。

カンザスシティの会社では、生涯の親友となるアブ・アイワークスと出会いました。

そして、アニメーションという新しい表現方法の持つ可能性に、強く心を引かれていきます。

二人は一緒に独立し、「ラフ・オー・グラム」という会社を作りましたが、経営がうまくいかず、会社はつぶれてしまいます。

これは彼にとって、手痛い失敗の経験となりました。

ほとんどお金がない状態で、ディズニーは最後の望みをかけて、映画産業の中心地ハリウッドへ行くことを決意します。

1923年のできごとでした。

ロサンゼルスでは、兄のロイ・ディズニーと一緒に「ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ」(後のウォルト・ディズニー・カンパニー)を立ち上げました。

始めたばかりの頃は苦労の連続でしたが、アブ・アイワークスも仲間に入り、状況は少しずつよくなっていきます。

大きなきっかけとなったのは、ユニバーサル・ピクチャーズの仕事ができるプロデューサー、チャールズ・ミンツから仕事の依頼があったことでした。

こうして生まれたのが、「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」というキャラクターです。

かわいらしく、生き生きと動き回るオズワルドは、すぐにみんなの人気者になりました。

『しあわせウサギのオズワルド』シリーズは、ユニバーサルが配給した最初のアニメーションシリーズとして、大変なヒットを記録します。

ディズニーのスタジオは急にハリウッドで注目される存在となり、ウォルトは20代半ばという若さで、大きな成功を手にしたように見えました。

自分のアイデアと仲間たちの技術が形になり、夢への道が大きく開かれた瞬間だったのです。

しかし、成功の光が強ければ強いほど、すぐそばに危険な影も忍び寄っていることを、ウォルトはまだ知りませんでした。

すべてを奪われて|信頼、仲間、そして愛すべきキャラクターを失った日

オズワルドの人気は、ディズニーにお金と名声をもたらしましたが、同時に思わぬ危険も潜んでいました。

1928年、契約を新しくするためニューヨークへ向かったウォルトを待っていたのは、配給会社の社長チャールズ・ミンツからの、とても冷たい言葉でした。

ミンツはオズワルドの人気を利用して、キャラクターに関するすべての権利を自分の会社のものにしようと計画していたのです。

当時の契約には、キャラクターの権利が配給会社であるユニバーサル(実際には代理人であるミンツ)のものになるという、ディズニーにとって非常に不利な点がありました。

ミンツは契約の弱点を突き、アニメ制作にかける費用を大幅に減らすよう求めてきます。

もしディズニーがこの要求を受け入れなければ、オズワルドの制作は自分たちで行うと、はっきり言い渡したのです。

さらに悪いことに、ミンツは、ディズニーが一生懸命育ててきたアニメーターたちのほとんど全員を、高い給料を約束してひそかに自分の会社へ移籍させていました。

長年の大切な仲間だったアブ・アイワークスを除いて、中心となって働いていたスタッフの大部分が、ミンツの側についてしまったのです。

ウォルトは、自分が生み出したキャラクターだけでなく、一緒に頑張ってきたはずの仲間たちまで、たった一瞬で失うことになりました。

わずか26歳で、成功の頂点から、どうしようもないどん底へと突き落とされたディズニー。

話し合いはうまくいかず、すべてを失った彼は、がっかりした気持ちでニューヨークを去ります。

ハリウッドへ帰る大陸横断鉄道の車内で、ウォルトは深い絶望感に沈んでいました。

愛情を込めて作ったキャラクター「オズワルド」は、もう自分の手元にはありません。

信じていた仲間たちは去り、スタジオには誰もいなくなってしまいました。

夢への道は完全に閉ざされたように感じられたことでしょう。

ニューヨークからの帰り道での彼の気持ちを考えると、どれほどつらかったか想像できます。

しかし、すべてを失ったこの体験こそが、後に世界を変える新しいものを生み出すきっかけとなるのです。

希望は思い出の中に|どん底で出会った、小さなネズミ

希望を失いかけていたディズニーでしたが、彼の心にはまだ情熱の火が残っていました。

「ここで諦めるわけにはいかない」。

ロサンゼルスへ戻る列車の中で、ウォルトは自分を元気づけます。

スケッチブックを取り出して、オズワルドに代わる新しいスターを生み出そうと、必死にペンを走らせました。

けれども、焦る気持ちばかりが強くなり、なかなか良いアイデアは出てきません。

アイデアを探している時、彼の頭にかつての貧しかった日々の記憶が浮かびました。

カンザスシティで「ラフ・オー・グラム」の仕事をしていた頃、お金がなくてオフィスで寝起きしていた時期がありました。

その時、画材机の周りをちょろちょろしていた小さなネズミたちがいたのです。

世間では嫌われることが多いネズミですが、ディズニーにとっては、一人で寂しかった時期を一緒に過ごした、どこか親しみやすい存在に感じられました。

ウォルトは、そんな小さな友だちのことを思い出していました。

「そうだ、ネズミだ! ネズミを主人公にしたアニメーションを作ってみよう!」

当時、アニメーションの主役にネズミが選ばれたことはありませんでした。

しかし、苦しい状況にあったディズニーにとって、誰もやらないことへの挑戦は、むしろ「やってみよう」という気持ちを強くさせます。

彼は、思い出したネズミに大きな耳と、赤い半ズボンをはかせ、人間のように豊かな表情を持たせました。

初め、新しいネズミのキャラクターには「モーティマーマウス」という名前が考えられていたそうです。

しかし、「少しかたい名前ね」という妻リリアンの意見を聞き入れて、「ミッキーマウス」と名付けられました。

ロサンゼルスに戻ったディズニーは、唯一残ってくれた大切な仲間アブ・アイワークスと共に、寝る間も惜しんでミッキーマウスのアニメーション制作に取り組みます。

アイワークスは、驚くべきスピードと絵のうまさで、ディズニーの考えを次々と形にしていきました。

彼らのスタジオには、去っていった人たちの代わりに、新しい才能を持つ人たちが集まり始めていました。

失意の中から生まれた小さなネズミは、スタジオを立て直すための希望の光となったのです。

「魔法」のはじまり|世界を変えた音の革命と、夢をあきらめない勇気

ミッキーマウスを主役にした最初の2つの作品(『プレーン・クレイジー』、『ギャロッピン・ガウチョ』)は音のないサイレントで作られましたが、配給してくれる会社が見つかりませんでした。

その頃、映画の世界では音の出る映画(トーキー)が話題になり始めていました。

ディズニーは、音を使うことがミッキーを特別な存在にするチャンスだと強く感じます。

「アニメーションに音をぴったり合わせるんだ!」

アニメに音を合わせる試みは、それまで誰も本格的にやったことのない挑戦でした。

映像と音楽、効果音、セリフを完全に一致させる「サウンド・シンクロナイズド・アニメーション」という新しい手法です。

多くの人が音付きアニメの成功を疑う中、ディズニーは自分のお金も使い、録音技術を開発しようと努力します。

そして1928年11月18日、ニューヨークのコロニー劇場で、世界で初めて音と映像が完全にシンクロした短編アニメーション『蒸気船ウィリー』が上映されました。

『蒸気船ウィリー』では、口笛を吹きながら船の舵を取るミッキーが登場し、動物たちが楽器となって楽しい音楽を奏でていました。

新しい映像と音の組み合わせは、観客に大きな驚きと興奮をもたらします。

それまでディズニーの作品に興味を示さなかった配給会社や劇場主たちが、みんな一緒に上映したいと申し込んできたのです。

『蒸気船ウィリー』の成功によって、ミッキーマウスはあっという間に大スターとなり、アメリカだけでなく、世界中で最も愛されるキャラクターへと成長しました。

オズワルドを失ってから、わずか1年にも満たない期間での出来事だったのです。

ディズニーは、苦しい状況を乗り越え、以前よりも大きな成功を手に入れました。

彼は後にこんな言葉を残しています。

我々の夢はすべて叶う。それを追い続ける勇気さえ持てば(All our dreams can come true, if we have the courage to pursue them.)

オズワルドを失うという最大の危機は、ミッキーマウスという、めったに現れないほどの素晴らしいスターと、「音付きアニメ」という新しい技術を生み出すきっかけになりました。

もしミンツの裏切りがなければ、ディズニーの創作意欲はこれほどまでに強くならなかったかもしれません。

ディズニーの物語は、失敗やつらい経験が決して終わりではなく、新たな始まりや、より大きく成長するための乗り越えるべき困難になり得ることを教えてくれます。

夢を諦めず、難しい問題に立ち向かい続ける勇気さえあれば、道は必ず開けるのです。

ウォルト・ディズニーの生き方は、時代をこえて、私たちに希望とひらめきを与え続けています。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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