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1009回の「ノー」を乗り越えて|カーネル・サンダース

こんにちは、齋藤勇磨です。

白いスーツに蝶ネクタイ、そして優しい笑顔。

ケンタッキーフライドチキンの創業者、カーネル・サンダースの姿は、世界中で親しまれています。

しかし、彼が65歳で無一文から世界的フランチャイズを築き上げた波乱万丈の人生、そしてあの独特なスタイルに隠された戦略を知る人は、意外と少ないのではないでしょうか。

この記事では、不屈の精神で夢を追い続けたカーネル・サンダースの生涯を、具体的なエピソードを交えながら紐解いていきます。

多彩な職歴が育んだ不屈の精神と商才

カーネル・サンダース(本名:ハーランド・デーヴィッド・サンダース)は、1890年、インディアナ州の貧しい家庭に生まれました。

幼くして父を亡くし、家計を助けるために10代から様々な仕事に就きました。

その職歴は、まさに彼の不屈の精神と、後のビジネスセンスを形成する「学校」でした。

10歳で農場労働者として働き始めたサンダースは、16歳で年齢を偽って軍に入隊。キューバで軍用馬車の御者やラバの世話係を務めました。

除隊後は、鉄道会社で蒸気機関車の灰の掃除や機関助手の仕事、さらには消防士としても働きます。

驚くべきことに、彼は通信教育で法律を学び、アーカンソー州で弁護士として3年間働いた経験も持っています。ただし、法廷で依頼人と喧嘩をしてしまい、このキャリアは幕を閉じますが……。

その後も、オハイオ川でのフェリーボート会社経営、アセチレンランプ製造会社の設立、ミシュランタイヤのセールスマンなど、その職歴は驚くほど多岐にわたります。

これらの経験は、彼の問題解決能力、コミュニケーション能力、何より「諦めない心」を育んだでしょう。

絶品フライドチキンの誕生

1930年、ケンタッキー州コービンでガソリンスタンドを経営し始めたサンダースは、あることに気づきます。

長距離トラックの運転手たちが、周辺に食事をする場所がなく困っているのです。

「彼らに食事を提供すれば、きっと喜ばれるはずだ」。

そう考えたサンダースは、ガソリンスタンドの裏の物置を改造し、小さな食堂を始めました。

サンダースの料理の腕前は、すぐに評判を呼びました。

特に、彼が独自に開発したフライドチキンは、そのジューシーさとスパイスの絶妙なブレンドで、ドライバーたちを虜にしました。

彼の食堂は、「サンダース・カフェ」として、地元の人々にも愛されるようになります。

1937年には、ケンタッキー州知事から「カーネル(大佐)」の称号を授与され、これが彼の愛称となりました。これは、彼の地域社会への貢献が認められた証です。

65歳、無一文からの再出発

順風満帆に見えたサンダースのレストラン経営ですが、1950年代に入ると、大きな転機が訪れます。

新しい州間高速道路の建設により、サンダース・カフェの前の国道を通る車の数が激減してしまったのです。

これは、立地に依存していた彼のビジネスモデルにとって致命的な打撃でした。

彼は、20年以上も愛着を持って続けてきたレストランを手放さざるを得なくなりました。

借金を返済すると、手元にはほとんど何も残りません。

65歳にして、彼は社会保障の小切手だけを頼りに生きていくことになったのです。

多くの人が絶望する状況ですが、サンダースは諦めませんでした。

彼は、自分のフライドチキンのレシピには、まだ価値があると信じていたのです。

「そうだ、レストランで最も人気だったフライドチキンを売りに行こう」。

サンダースは、新たなビジネスモデルを思いつきます。それは、自分のフライドチキンのレシピを他のレストランに提供し、その売り上げの一部をロイヤリティとして受け取るという、フランチャイズ方式でした。

白いスーツは戦略|1009回の「ノー」の先にあった成功

サンダースは、代名詞とも言える、あの有名なスタイルを確立します。

白いスーツ、黒いリボンタイ(蝶ネクタイ)、そして杖。

このスタイルには、「カーネル」という称号から連想される南部紳士のイメージ(上品さ、伝統、信頼)を体現する意図がありました。

さらに、食品ビジネスに不可欠な清潔感とプロフェッショナリズムを白いスーツで表現し、当時としては珍しいその出で立ちで、人々の記憶に残りやすい差別化を図ったのです。

彼は、愛車のオールドモービルに圧力鍋と秘伝のスパイスを積み込み、全米各地のレストランを訪ね歩きました。

その場でフライドチキンを調理し、オーナーやシェフに試食してもらうという、実演販売のスタイルです。

しかし、彼の熱意とは裏腹に、反応は冷ややかでした。

「年寄りのたわごと」「そんな話に乗るわけがない」と、門前払いされることもしばしば。資金も底をつき、車中泊をしながらの過酷な旅が続きました。

しかし、サンダースは決して諦めません。

彼は、自分のフライドチキンの味に絶対的な自信を持っていたのです。

そして、ついに、1009回目の訪問で、ユタ州ソルトレイクシティのレストランオーナー、ピート・ハーマンがサンダースの提案を受け入れます。

これが、ケンタッキーフライドチキンのフランチャイズ第1号店となりました。

ハーマンのレストランでは、フライドチキンが大ヒットし、サンダースの評判は徐々に広まっていきました。

夢を追い続けた生涯

サンダースのフランチャイズビジネスは、口コミで広がり、急速に成長していきました。

彼のフライドチキンは、アメリカ全土で愛されるようになり、1964年には、600以上の店舗を持つ巨大フランチャイズチェーンへと成長しました。

晩年、サンダースは、ケンタッキーフライドチキンの「顔」として、世界中を飛び回ります。

彼の白いスーツと蝶ネクタイ、優しい笑顔は、ブランドの象徴となり、人々に親しまれました。

1980年、サンダースは90歳でこの世を去りました。

彼が築き上げたケンタッキーフライドチキンは、現在では世界145以上の国と地域で25,000店以上を展開する、世界最大のフライドチキンチェーンとなっています。

カーネル・サンダースの生涯は、「年齢に関係なく、夢を追い続けることの大切さ」を教えてくれるのではないでしょうか。

彼の不屈の精神と、フライドチキンへの情熱は、今日も世界中の人々に、どんな困難も乗り越えられるという力強いメッセージを伝えているのです。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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