コラム

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ドン・キホーテは、現代の私たちの写し絵~最期に「幻想だった」と気づく物語~

こんにちは、齋藤勇磨です。

今回は、世界文学の金字塔、ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』を深掘りしたいと思います。

騎士道物語を読みすぎた男の滑稽な冒険譚……と、一言で片付けてしまうのは簡単ですが、実はこの物語、現代を生きる私たち自身の姿を映し出しているのではないかと、思えてならないのです。

特に、物語の終盤、死を間近にしたドン・キホーテが、自分の生きてきた世界が「幻想」だったと悟るシーンは、私たちに強烈な問いを投げかけます。

今回は、この点を中心に、『ドン・キホーテ』を読み解いていきましょう。

世界が夢中になった『ドン・キホーテ』の衝撃

『ドン・キホーテ』は、17世紀初頭のスペインで書かれた長編小説です。

出版されるやいなや大ベストセラーとなり、今日まで世界中で翻訳され、愛読されています。

主人公は、アロンソ・キハーノという郷士。彼は、騎士道物語を読みふけるあまり、現実と虚構の区別がつかなくなってしまいます。

自らを遍歴の騎士「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗り、痩せ馬ロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引き連れて冒険の旅に出ます。

もちろん、これは彼の妄想の世界での話。風車を巨人と思い込んで突撃したり、羊の群れを軍隊と見間違えて戦いを挑んだりと、傍から見れば滑稽な行動ばかり。

しかし、ドン・キホーテ本人は至って真面目で、正義と愛のために戦っているつもりなのです。

「全部ウソだった…」騎士の最期が涙なしに読めない理由

ドン・キホーテの冒険は、失敗と挫折の連続です。それでも彼は、理想に燃え、騎士道を貫こうとします。

サンチョ・パンサは、そんな主人に呆れながらも、どこか憎めず、共に旅を続けます。

この主従のやり取りが、また面白いところです。

現実主義者のサンチョは、ドン・キホーテの妄想をたしなめつつも、彼の人柄に惹かれていく。

読者も、この2人と一緒に、笑いあり、涙ありの珍道中を体験するわけです。

しかし、物語の終盤、ドン・キホーテはついに病に倒れます。

そして、死を間際にして、彼は衝撃の真実を知るのです。

自分が信じてきた騎士道の世界、冒険の全てが、実は「幻想」だったと。

愛読していた騎士道物語は、時代遅れの作り話。自分が戦ってきた相手は、巨人でも悪の魔法使いでもなく、ただの風車や羊だった…。

正気に戻った彼は、最期にこう語ります。

「おかげで、わしは今や曇りのない理性を取りもどし、あのおぞましい騎士道物語を読みふけったがためにわしの頭にかかっていた、無知という黒々とした霧もすっかり晴れたのじゃ。それゆえ、今ではああした物語がいかに荒唐無稽でまやかしに満ちていたかをはっきり認めることができる。ただ残念でならないのは、この迷妄から覚めるのが遅すぎたため、魂の光明となるような種類の書物を読んで、その償いをする時間がもはや残されていないことじゃ」(岩波文庫 後篇(三)P402-403 岩波文庫  2001年刊)

こうして、ドン・キホーテはアロンソ・キハーノとして静かに息を引き取るのです。

あなたは大丈夫?現代社会に潜む「ドン・キホーテ化」の罠

このドン・キホーテの最期、皆さんはどう感じましたか。滑稽だと笑い飛ばせますか。

私は、ここに現代を生きる私たち自身の姿が重なって見えるのです。

私たちは、日々、様々な「物語」を生きています。

仕事、恋愛、家族、趣味……。それぞれの人生には、それぞれのドラマがあります。

そして、私たちはその物語の主人公として、目標に向かって努力したり、困難に立ち向かったりします。

でも、ふとした瞬間に、こう思うことはありませんか?

「自分が追い求めているものは、本当に価値があるのだろうか?」

「もしかしたら、自分もドン・キホーテのように、幻想の世界を生きているのではないか?」

SNSで「いいね!」を集めること、ブランド品で身を飾ること、他人からの評価を気にすること……。

これらは、現代社会が生み出した「幻想」かもしれません。

もちろん、全てが無意味だと言うつもりはありません。しかし、私たちが「現実」だと思っている世界も、視点を変えれば、ドン・キホーテの騎士道物語と大差ないのかもしれないのです。

セルバンテスは、序文でこう述べています。

「…この書物のねらいは、騎士道物語が世間と大衆とのあいだで享受している権勢と、名声を打倒すること以外にはないのだから、…世の多くの人に嫌悪されながらも、それよりはるかに多数の連中によってもてはやされている、騎士道物語という基盤の怪しげな虚構の打倒にたえず狙いを定めておくことだ。」(岩波文庫 前篇(一)P23)

つまり、荒唐無稽な騎士道物語を批判し、人々に「現実」を見つめさせようとしたのですね。

この騎士道物語というものを現代のインターネットの世界に置きかえてみると、そのまま、SNSやネットゲームに没頭している人間が多い現代への、反省を促す物語に見えてきます。

それでも生きる意味を教えてくれる『歎異抄』の名言

ここで思い出すのが、鎌倉時代の古典『歎異抄』の一節です。

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あることなし」

(現代語訳:火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない)

この言葉は、私たちが生きるこの世の儚さ、不確かさを鋭く突いています。

『ドン・キホーテ』のテーマとも深く共鳴するのではないでしょうか。

私たちは、生まれたときから死に向かって歩んでいます。

その過程で、様々な「幻想」を追い求め、一生を費やします。しかし、最終的には全てが「夢まぼろしだった」と知らされる。

私の信ずるものだけは「幻想」ではない、と果たして、言い切れるでしょうか。

天下を取ったあの秀吉でさえ、臨終には「難波のことも夢のまた夢」と辞世を残しています。

そこには、天下人の威光は微塵もありません。

その中、『歎異抄』は、変わらぬ幸福があると説きます。

そんな幸せを冒頭には、「摂取不捨の利益」(せっしゅふしゃのりやく)といわれているのです。

『ドン・キホーテ』は、単なる滑稽な冒険物語ではありません。私たち自身の「生」を問い直す鏡のような作品です。

ドン・キホーテのように、私たちもまた、いつか自分の人生が「幻想」だったと気づく日が来るのではないでしょうか。

その時、後悔しないために、どこに向かって生きるべきか。

『ドン・キホーテ』と『歎異抄』、この2冊は、私たちに人生を考えるヒントを与えてくれているような気がします。

摂取不捨の幸福については、こちらの記事をごらんください。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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