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割れた小皿~家臣の失態と加藤嘉明の思いやり

こんにちは、齋藤勇磨です。

安土桃山・江戸初期の武将である加藤嘉明(かとうよしあき)(1563-1631)は、豊臣秀吉の天下統一事業に参加し、賤ケ岳の合戦(現在の滋賀県長浜市で行われた戦い)で福島正則や加藤清正と並んで七本槍に数えられる主力武将の1人です。

通称で「孫六」や「左馬助」と呼ばれていた彼は、三河国(現在の愛知県西尾市)出身で、幼少期は馬の売買をする人に養われていたと伝えられています。

織田信長に仕える加藤景泰に出会ったのを機に、豊臣秀吉に推挙されました。

水軍の将としても知られ、小田原征伐、文禄・慶長の役も水軍を率いて参陣しています。

また文禄・慶長の役では、朝鮮に渡り敵に攻められ苦しんでいた加藤清正を助けた事もありました。

こう聞くと、無骨で、戦闘シーンばかり連想しがちですが、苦労人だった彼は人情の機微にも通じ、家臣を大切にしていました。

一国に相当する器の値

戦国時代には、茶湯が大いに流行しました。

茶湯は文化的な行為であるだけにとどまらず、戦国武将にも注目され、政治的な結びつきを強めていきます。

そのような状況下で、茶湯には欠かせない茶器も大いに注目されるようになり、名物とされた茶器には、かなりの付加価値がつけられました。

戦国武将の間で贈答品として活用されることも、あったのです。

例えば、織田信長は服属した相手に名物茶器を献上させたり、「名物狩り」と呼ばれる強制買収を実施したりして、名物収集に力を注いでいます。

また、松永久秀が信長に対して2度目の謀反を起こした時、信長から「名物『平蜘蛛』(茶釜)を献上すれば、命は助ける」と言われましたが、引き渡しを拒否。一説には、茶釜を抱いたまま火の中に飛び込んだと言われています。

こうしたエピソードを鑑みると、茶器に大きな付加価値がつけられ、同時に多くの情熱が注がれていたことが見えてきます。

パリーン!響き渡る悲劇の音

加藤嘉明も、趣味で、いろんな陶器を収集していました。

中でも特に、南蛮渡来の焼き物で、「虫喰南京」と呼ばれる10枚1組の小皿が大のお気に入り。

藍色の釉薬(うわぐすり)に土目を施した、ため息の出るような逸品で、重要な会合の時にしか持ち出さない、秘蔵中の秘蔵でありました。

ある日のことです。大切な客のもてなしに、この皿を用いようと決まり、1人の家臣が「虫喰南京」の小皿を並べる準備をしていました。

ただでさえ、日頃とは違う宴席の準備に追われています。

「さあさ、急げ急げ」。時間が迫り、焦りも出てきます。

主君が最も大事にしている貴重な皿です。

扱いで、あぶら汗がにじんだ家臣は、思わず知らず、手が滑り――。

「あっ、しまった!」

その瞬間、パリーン!と皿の割れる音が、屋敷に響きました。

誤って、このうちの1枚を落として割ってしまったのです。家臣は顔面蒼白となり、その場に立ち尽くしました。

主人自慢の逸品を割ってしまったとなると、切腹を申しつけられても仕方のない時代です。

「ああ、何ということをしてしまったのか……」。

家臣は、すっかり元気をなくし、自宅に引きこもってしまいました。

やがて、別の者からの報告で、秘蔵中の秘蔵の皿の1枚が割れたことを知った加藤嘉明は、その家臣をすぐに呼び出しました。

「もはやこれまでか」

切腹覚悟で家臣が戦々恐々と彼のもとに赴くと、嘉明は静かに待っていました。

「この度は、誠に申し訳ございませんでした」。家臣は平身低頭、謝ります。

すると嘉明は、家来に命じて、残り9枚の虫喰南京の小皿を持ってこさせました。

何をするのだろうと震えていると、彼は黙って、その家臣の目の前で、残りの9枚の皿全てを、次々と割り捨ててしまったのです。

さぞかし叱られるだろうと思っていた家来は、意表を突かれました。

突然の主人の行動にあっけにとられていると、加藤嘉明はつぶやくように言いました。

「小皿が10枚1組であることは、家中のほとんどの者が知っている。残りの皿をそのままにしておくと、残りの1皿は誰が割ったのかと、後世まで問題にされるだろう。それでは、お前がそのたびに肩身の狭い思いをするだろうから、かわいそうだ。いっそのこと、皿がなくなればいい」

器物を愛する心より、士を粗忽の名に汚したり、是皿十の数ある物の中、何の年、何某こそ損じつれと器物の出る度毎に其者の名を出さんこと吾本意にあらず、毛頭怒てするにあらず、吾非を改むる也 (真田増誉『明良洪範』)

平伏している家臣は、驚いて、声も出ません。

彼は優しい眼差しで、次のように続けたといいます。

「たとえ国1つと交換できるような立派な陶器であっても、私のために働いてくれる家臣の命には代えられないものだ。焼き物はまた作れるかも知れないが、忠義な家臣は得られるものではない。ここに南京小皿は無くなった。次第に皆もそなたの粗相のことなど忘れてゆくであろう。割ったことを申し訳なく思うなら、今後もこれまでどおり忠勤、ますます励め」

加藤嘉明の温情に、家臣はどれほど感激したことでしょう。

この家臣は、主君の思いやりを肌で感じ、生涯、彼に仕えました。

その後、知り合いの大名との懇談で、この皿が話題にのぼった時、「それがし、珍品とはいえ、家臣たちがそこまで気を使うような代物を集めていたことに気づきましたゆえ、もう珍品集めはやめ申した」と、こともなげに言ったと伝えられています。

一時の怒りに身を任せない

わずか300石から身を起こした加藤嘉明は、多くの家臣に支えられ、最後は会津若松40万石の大名となりました。

失敗しても、一時の怒りに身を任せることなく、家臣一人ひとりを大切にし、温かい人間関係を築いていたからこそでしょう。

一瞬の「怒り」が発端で、取り返しのつかないことになってしまうことがよくあります。

「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」。人生を棒に振ることのないよう、肝に銘じたいものです。

この記事を書いた人

ライター:齋藤 勇磨

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