令和6年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されました。
1万円札は、「日本の資本主義の父」と称される実業家の渋沢栄一、5000円札は津田塾大創始者の津田梅子、1000円札は破傷風の治療法を確立した微生物学者の北里柴三郎の肖像がそれぞれ描かれています。
今回は、その中の北里柴三郎(1853-1931)を取り上げたいと思います。
「病気で苦しむ人を救いたい」32歳でドイツ留学
明治25年、東京に産声を上げた建坪10坪ほどの小さな建物。
これが、のちに有名な「北里研究所」の礎となる日本初の伝染病研究機関、「伝染病研究所」です。
この施設を開設したのが、細菌学者の北里柴三郎でした。
明治初期、衛生状態のよくなかった日本では様々な伝染病が流行していました。
「疫病で苦しむ人を救いたい」という夢を抱いた北里は、32歳でドイツ留学に旅立ち、世界的な細菌学の権威、ローベルト・コッホに師事しました。
志は、熱意の継続となって現れます。
ベルリンの研究所で彼は6年半、細菌学の実験に没頭。誰よりも実験をこなす勤勉な姿にコッホは信頼を厚くし、北里に、次々と重要な実験を任せました。
世界初の破傷風純粋培養に成功
北里は、破傷風菌の純粋培養と血清療法の開発など、当時、世界で誰も達成できなかった研究を、次々と成し遂げます。
破傷風は、古代ギリシャやエジプトの時代から人類を悩ませてきた病です。
筋肉がけいれんしたり、息ができなくなったりして、症状によっては死亡することもあります。
症状はよく知られていましたが、その原因やメカニズムは、解明されていませんでした。
どうやら、破傷風は土の中に存在する何らかの微生物が原因となっていることまでは分かっていましたが、原因となる最近の純粋培養を、誰も成功させることはできていなかったのです。
他の菌やホコリが入り込まないように注意して、1種類の菌だけを増やす純粋培養は、長く単調な実験が求められ、非常に難しい作業でした。
成功させるためには、高い技術と専門知識、努力と忍耐が必要です。
有名大学の教授でさえ、「破傷風菌は単独では存在できない」と言っていました。
北里は、独自の装置を開発することで、誰もが諦めていた破傷風菌の純粋培養に成功したのです。
凱旋帰国した北里でしたが、志一つで勉学に突き進んだ彼には、研究所を建てるための資金も人脈もありませんでした。
そんな北里に協力を申し出たのが、日本近代化に尽くした思想家・福沢諭吉です。
海外の新聞で北里の活躍を知っていた福沢は、彼の情熱に共鳴し、伝染病の民間研究所を設立する費用を無償で提供してくれたのです。
ここで北里は日夜、研究に打ち込みました。
翌年には、港区白金にも日本初の結核専門病院を開設し、結核予防と治療に尽力しています。無私の姿勢は、研究所を徐々に発展させました。
謎の伝染病「ペスト」病原菌
その頃、「香港でペスト発生」の衝撃的なニュースが届きました。
ペストとは、感染力と致死率の高さで知られる病です。
地球上で何度も流行を繰り返し、14世紀には、ヨーロッパで人口の3分の1の命を奪ったこともありました。
100年近く、姿を消していたその恐ろしい病が、突如、東アジアの大都市で流行し始めたのです。
原因は不明、感染を防ぐ有効な対策も治療法もありません。
香港・日本間には、人や貨物を積んだ船が多く往来しています。
事態を重く見た日本政府は急遽、調査隊を編成し、香港に向かわせました。
チームの要として、政府が白羽の矢を立てたのが北里です。
コッホのもとで研鑚を積んだ彼は今や、病原菌を見分ける観察眼と知識を備えた、世界屈指の研究者でした。
抜擢された北里は、混乱と恐怖に包まれた香港の病院で、「日本での大流行を、何としても食い止めなければ」と、ペストの原因究明に挑んだのです。
今日のような医療用の防護服も手袋もない時代です。
いつペストにかかってもおかしくない過酷な環境で、正確に、速く、病原菌を特定しなければならない――。北里の背中に、重圧がのしかかります。
スタッフ3名が感染、1名が死亡する中、昼夜不断で顕微鏡をのぞき続け、ついに見たこともない細菌を発見。慎重に培養し、実験を行った結果、ペスト症状が、はっきりと認められました。
「これだ! この菌で間違いない!」
それは、永年にわたり人類を脅かし続けた、病原菌発見の瞬間でした。
治療法の確立に不可欠な病原菌の特定という偉業に、世界の研究者は称賛を贈りました。
北里によって、不治の病と思われていたペストの治療に、道が開かれたのです。
その後、日本にもペスト上陸の危機がたびたび訪れますが、北里の努力によって難局を乗り越え、日本は、国内のペスト根絶に成功したのでした。
成し遂げる鍵は熱意と誠実さ
日本の最先端の伝染病研究は、その後も、北里の研究所を中心に進められました。
北里のいた伝染病研究所は、様々な薬を開発し、多くの人を伝染病から救いました。
素晴らしい業績を残したこの研究所は、コッホの伝染病研究所、パスツール研究所とともに「世界三大研究所」と呼ばれています。
野口英世や志賀潔など、優秀な研究者を多く輩出しています。
後輩たちに北里は常々「熱と誠があれば何事でも達成するよ」*と助言していました。
大事業達成には、熱意と誠実さが鍵と知らされます。
[出典]
*福田眞人(著)『ミネルヴァ日本評伝選 北里柴三郎 ――熱と誠があれば――』 ミネルヴァ書房
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