いろはにほへとの「いろは歌」の意味に込められた幸せになるカギ
中学生でも知っている歌の、大人でも知らないふかーい話(1)
日本人なら誰もが知っている、いろはにほへとの「いろは歌」の意味を知ると、本当の幸福になれるカギが見つかります。それは、どんなカギなのでしょうか。
こんにちは。由紀です。
前回から、いろはにほへとの「いろは歌」の意味について、お話ししています。
まだ、前回の記事をお読みでなければ、先にこちらからご覧ください。
平仮名のままだと、よく分かられないと思いますが、漢字を当ててみると、ぼんやりと意味が浮かび上がってきます。
この「いろは歌」には、元になったお経の言葉があり、そこには、幸せになるための真理が説かれていると、前回、お話しいたしました。
その経典の言葉とは、以下の16文字です。
これらは前半の二行
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
と、後半の二行、
生滅滅已(しょうめつめつい)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
に分けられます。
いろはにほへとの「いろは歌」の一行目
「色は匂えど 散りぬるを」は、仏教の「諸行無常」を教えたものです。
「諸行無常」は、『平家物語』の冒頭にも、
と出てきますね。
「諸行無常」の「諸行」とは全てのもの、「無常」とは、常がなく、変わり続けていることです。この世のどんなものも、変化しています。どんなに大事にしても、愛する人も、大切な物も、必ず壊れていく定めにあります。
という言葉があります。
今も昔も、桜の花もあっという間に散ってしまい、気づけば「あー、もう葉桜だな」と感じるものです。
もともとは、江戸中期の俳人、大島蓼太(りょうた)の句、
「世の中は三日見ぬ間に桜かな」
から来ていて、この句では、「3日外に出ないでいたら、桜の花が咲きそろっている」という意味だったそうです。
しかし、今日、この歌は、桜の花の散りやすいことを歌った歌として、使われています。
もちろん桜だけが無常のものではありません。
すべてのものが桜のようにはかないことを、「色は匂えど散りぬるを」と表現し、諸行無常の現実を教えられています。
いろはにほへとの「いろは歌」の二行目
「わが世誰ぞ 常ならむ」とは、「この世で、一体何か常なるものがあるだろうか、いや、常なるものは一つもない」という意味です。
この「わが世誰ぞ 常ならむ」は、仏教の「是生滅法(是れ生滅の法なり)」からきています。
「是生滅法」とは、「是れ生滅の法なり」と読みます。
「法」とは、いつでも、どこでも変わらない真理のことです。
「生滅」とは、「生じたものは必ず滅する」ということですから、「是生滅法」とは「生じたものは必ず滅することは、いつでもどこでも変わらない万古不変の真理である」ということなのです。
すべてのものは常が無く続かないのは、いつでもどこでも変わらない真理なのです。
色は匂えど 散りぬるを
わが世誰ぞ 常ならむ
諸行無常(しょぎょうむじょう)
是生滅法(ぜしょうめっぽう)
と聞くと、
「そんなことを考えていたら、暗くなるよ」
「悲観的なことばかり聞かされるから、仏教は嫌い」
と敬遠する人もあるでしょう。
でも、ちょっと考えてみてください。
「最近なんだか体調がすぐれない。もし、悪いところが見つかったら……」
と恐れて、健康診断を受けなかったら、どうなるでしょう。次第に悪化して、手遅れになるかもしれません。検査を受けて初めて、不調の原因がハッキリし、それに応じた治療を受けることができるのです。
健康を取り戻すには、肉体の状態をありのままに知ることがまず、大切ですよね。地震で家が倒壊しないだろうかと心配な人も、耐震性の検査を受けて、補強工事を行えば、安心できるでしょう。
「いろは歌」は、最初の2行で、古今東西変わらぬ、「諸行無常」の現実を明らかにしています。それは、現実をありのままに見てこそ、本当の幸福になれるから。これを、仏教では、
と教えられています。
「観ずる」とは、ありのままに見つめること。「菩提心」とは、変わらない本当の幸せ、絶対の幸福のことです。無常を無常と見つめることが、絶対の幸福への第一歩なのです。
逆に、無常の現実に目をそむけて、幸せだけを追い求めたらどうなるでしょう。
「幸福の歓喜のただ中に、思わぬ落とし穴がありますよ」と、仏教では警告されています。
春、フレッシュな新入社員を見ていると、自分の入社当時を思い出し、心が洗われる気持ちにさせられます。経験を積むほど、上司や部下、顧客などとの信頼関係が深まって、やりがいが出てくるもの。責任ある立場に立てばなおさら、多くの人から慕われるようになるでしょう。
ところが、いつまでも働き続けるわけにはいきませんよね。若手を伸ばすためにも、引き際を考える年齢になると、それら職場仲間と別れねばならないという、寂しさが心の中を吹き抜けます。
インターネットで縁のあった知人に、もとは、会社の重役だった男性があります。
その男性が、引退後の胸中を打ち明けてくれました。
「現役時代は、新年ともなれば、毎年、たくさんの人が自宅に挨拶にやってきました。年賀状も、1000通以上、届いたものです。妻と『今年は何人くらい、来るかねえ……。引退したから、減るだろうが……』と話していたものの、蓋を開けたら、誰一人、訪ねてこなかった。ショックでした。年賀状も数えるほどになってしまって……。『これも会社のためだ。後継のためにも、それでいいんだ』と、自分を納得させようとしても、わびしくてしかたなかった……」
皮肉なことに、仕事に打ち込んできた人ほど、心にポッカリ開く穴は大きくなるようです。
子供が結婚して自分から離れたあと、うつ病になる女性が多く、「空の巣症候群」と呼ばれています。別離がそれだけつらいのは、おなかを痛めた子は命だからでしょう。目に入れても痛くない、かわいい子であればあるだけ、別れの寂しさは耐え難いものです。
大きな幸せを味わったあとには、悲しみが必ずやってくるのです。
仏教には
という言葉もあります。
出会いの喜びには、必ず、別れの悲しみが付きまといます。
「なぜ私は苦しまねばならないのか」
それは、私が幸せだったからなのです。
「愛とは巨大な矛盾であります。それなくしては生きられず、しかもそれによって傷つく」
古今の哲学者たちも、この世の幸せの実態を嘆かずにいられませんでした。
いろはにほへとの「いろは歌」の後半
生滅滅已(しょうめつめつい)
寂滅為楽(じゃくめついらく)
は、一切が滅びる中に滅びない幸せが教えられています。
悲しみに満ちた世界を「有為」(うい)といい、その苦しみが深いので「奥山」
と表現されています。
しかし、その悲しみを「今日越えて」と言われ、生きている時に、乗り越えられると詠われています。
前半の「諸行無常 是生滅法」の真理は、この本当の幸せに導くために説かれていることが、お分りいただけたでしょうか。
「生きている時に、ハッキリと絶対の幸福になれる」
これが、お釈迦様の教えです。
その教えのとおりに、絶対の幸福になった時、
と知らされるのです。
お釈迦様の時代にも、別れの悲しみを、仏教によって乗り越え、本当の幸せに
導かれた、1人の女性のエピソードが残されているので、ご紹介しましょう。
お釈迦様のおられたインドに、キサーゴータミーといわれる麗しい女性がいました。結婚して玉のような男の子に恵まれました。
ところが、命より大切に育てていたその子が、突然の病で急死してしまったのです。
彼女は狂わんばかりに愛児の亡骸を抱きしめ、この子を生き返らせる人はないかと村中を尋ね回りました。
会う人見る人、その哀れさに涙を流しましたが、死者を生き返らせる人などあろうはずがありません。
しかし、今の彼女に、何を言っても無駄だと思う人たちは、
「舎衛城にましますお釈迦様に聞かれるがよい」
と教えました。
早速、キサーゴータミーはお釈迦様を訪ね、泣く泣く事情を訴え、子供の生き返る法を求めたのです。
憐れむべきこの母親にお釈迦様は、優しくこう言われています。
「あなたの気持ちはよく分かる。愛しい子を生き返らせたいのなら、私の言うとおりにしなさい。これから町へ行って、今まで死人の出たことのない家から、ケシの実を一つかみ、もらってくるのです。すぐにも子供を生き返らせてあげよう」
それを聞くなり、キサーゴータミーは、町に向かって一心に走りました。
どの家を訪ねても「昨年、父が死んだ」「夫が今年、亡くなった」「先日、子供に死別した」という家ばかり。ケシの実はどの家でも持ってはいたが、死人を出さない家は、どこにもありませんでした。
しかし彼女は、なおも死人の出ない家を求めて駆けずり回ります。
やがて日も暮れ、夕闇が町を包む頃、もはや歩く力も尽き果てた彼女は、トボトボとお釈迦様の元へと戻っていました。
「ゴータミーよ、ケシの実は得られたか」
「世尊、死人のない家はどこにもありませんでした。私の子供も死んだことがようやく知らされました」
「そうだよ、キサーゴータミー。人はみな死ぬのだ。明らかなことだが、分からない愚か者なのだよ」
「本当に馬鹿でした。こうまでしてくださらないと、分からない私でございました。こんな愚かな私でも、救われる道を聞かせてください」
彼女は深く懺悔し、仏教を聞き求めて、幸福になったといわれます。
知識とは、仏教の先生のことを言います。
「もしあの子が、この世の無常を、身をもって教えてくれなければ、無常を無常と知らず、真実の幸せを求めようともしなかったでしょう。そう考えれば、わが子は、私を真実の幸福に導いてくだされた師であり、浄土へと還っていったと知らされる」
と、キサーゴータミーは、感涙にむせんだことでしょう。
喪失の悲しみに沈み、途方に暮れる人も、その涙の一滴一滴が、感謝の涙に変わる時が来ます。だから、くじけず生き抜いて、絶対の幸福を教えた仏教を聞き求めましょうと、温かいエールを送っているのが、「いろは歌」に込められた仏教精神なのです。
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